しにました

「しにました」
 黒髪の少女が、紅い唇をぱっくり開けて、しらしらした口調で言った。見てみると、左肩の、首の付け根に近い部分から、右腰へ抜けるように大きな裂傷が出来ている。おまけに、おそらくは鼓動と同じタイミングなのだろうが、とかく一定のリズムで端からたらりたらりと少々黒っぽい血が落ちて血溜まりを広げ続けている。血が黒いのは静脈だったか、と、おぼろげな知識をひっぱりだして考え込んだが、どちらでもこの状況に変わりはないので、やめた。確かにこのような傷を負って生きていたらば化け物である。なるほど、これはしにましたな、などと、妙な感心をすると、少女はこきりと折れそうな首を縦に振って、肯、と答えた。
 傷口があまりにもあっけらかんと開いているので、思わず指を伸ばして突っ込んでみたくなってしまう。だが、それはあまりにも非礼なので、我慢した。
 五分ほどもじもじと逡巡したものの、あっさりと誘惑に負け、指をおそるおそる入れてみる。痛がるか、それともくすぐったがるか、と思ったが、どちらの反応もせず、ただ髪と同じ色をした艶消しの黒曜石を思わせる瞳でこちらを見つめるばかりである。やめろともなんとも言わぬ。死んでいるのだから、道理といえば道理である。
 少女が止めないので、調子に乗って指をひわひわと進めてゆく。傷の内側はねっとりとなまあたかかく、触れているとぞわぞわ鳥肌が立った。それが面白くて、また進める。ひわひわ、ぞわぞわ、ひわひわ、ぞわぞわ。ただ一心に指で少女の内側を探る。童心に返り、ひわひわぞわぞわと、遊ぶ。
「  」
 声にならぬ、息に音がついただけのようなものを、少女が洩らした。どこか娼婦の嬌声に似ている、なまめかしい声である。それでいてひどく少女らしいあどけなさがあった。
「なんてことを」
 今度は、きちんと喋った。少女は淡々とした口調で、ぱくりぱくりと朱唇を開閉させ、じっと抗議する。
「さわられました」
 はて、触れてはならなかったのだろうか、と首を傾げると、両の黒曜石がきろりと動いた。同じ方向へ視線をやると、どうやら、少女の肉のなかに差し入れていた指が、彼女の心臓に触れてしまっていたようである。死んだはずであるのに、少女の心臓は不規則にゆったりと動いている。指先から伝わるひくんひくんという動きが面白く、思わず、そのままくっと押してみた。
「さわられました」
 テープレコーダーを回しているかのような、全く変わらない口調で、もういちど言った。
「触られると、まずいのですか」
 訊ねると、またコキリと首を、今度は横に曲げた。よくはわからないらしい。少女はしらしらした、水銀のような声で言った。
「恋をします」
「恋ですか」
「はい」
 当たり前だ、と、頷いた。
「恋をするときは心臓に触れられるような心持がする、と、聞いたことがあります。だから、実際に触れられてしまったらば、これはもう、恋をしないはずがありません」
 今までと同じしらしらした口調だったが、今度はいやに断定しているように聞こえたのがおかしくて、くっくっと笑った。何を笑われているのかわからないようで、少女はまたコキリと首を傾げる。
「きみ、恋をしたことはないのですか」
「ありません」
 する前にしにました、と、答えた。背丈が私の腰ほどであることを鑑みれば、なるほど当たり前かもしれぬ。
「それでは私がきみの初恋ということになりましょうか」
「そのようです」
「光栄だ」
 光栄ついでに、と、言葉をつぐ。
「きみの知識は、すこし間違っていますよ。恋が始まるときというのは、心臓にくちづけをされたような心持になるものです」
 そう言って私は少女の傷をむいっと開き、心臓に直接、唇をつけた。なるほどこういうものですか、と、少女は言い、それからゆったりと笑った。



Fin



 

back / index