あおい桜

(いっそタクシーで帰るかな……いやいや、そんな金はない、勿体ない)
 苛々しながら、右腕につけた時計の文字盤を見る。人身事故があったとかで、乗るはずだった電車は一時間以上の遅れが出ていた。疲れた体を一刻も早く休めたいのに、どこかの馬鹿が線路に飛び降りたせいでまだまだ帰れそうにない。
 夏の暑さに体力をじりじりと削られていく。寒さには強いが、五月あたりから暑い暑いとわめきはじめるような俺にとって、ここはさながら地獄のようだ。
「ったく、死ぬなら自宅で手首でも切って死ねよ、馬鹿」
 隣に並んでいた品のよさそうなOLが、ぎょっとした目で俺を見る。無意識のうちに本心が口に出てしまったようだ。やはり相当疲れている。素直にタクシーで帰ろう、金はこういうときに使うもんだ、と決意して、いつ来るか分からない電車を待つ列を抜ける。
 ホームは許容量を越えた人の群れで混み合い、階段に辿り着くのも容易ではない。痴漢に間違われないように苦労しながら人の波をかきわけていると、ふと既視感を覚えた。
「……?」
 思わず立ち止まり、振り向いた。何かとても懐かしい人が居たような気がする。
 すこし伸びすぎた艶のない髪に、薄い肩。この八月の暑い盛りに、見ているほうがへばりそうな服装。
――あのひとだ。
 人違いだなんて微塵も思わなかった。絶対にあのひとだ。一年しか一緒に居なかったけれど、それでも、俺にはわかる。
「待、っ、!」
 誰なのか気づいた瞬間、知らずに声が出ていた。けれどそのひとには届かず、小さな背中は雑踏に紛れてすぐに見えなくなってしまう。
(……先輩、退院したのか)
 ざあ、と強い風が吹き込む。
 思わず目を閉じると、あの日と同じように、花びらが頬をかすった気がした。

      * * *

 風が吹いて、一瞬目を瞑った。春の風はやわらかいくせにどこか生き物めいていて、少し苦手だ。
 もっとも、目の前に居る人はそんなことなど全く気にしていないようだけれど。
「先輩」
 声をかけるけれど、目の前の先輩には届かない。耳が聞こえないわけじゃないし、意図的に無視しているわけでもない。先輩は自分が「先輩」だと思っていないから反応しないのだ。ため息をつき、それでも名前を呼ばず学生時代の立ち位置に固執する自分を嘲るように、ひそりと笑った。
 先輩は学生時代の文字通り「先輩」で、ずっとそう呼んできた。何を考えているのかよくわからない人で、おまけになかなかの問題児。さぼりや遅刻はしないほうが珍しく、そのくせきちんと単位だけは修めていたので留年することもなくちゃんと三年で卒業していった。唐突に学校をさぼったと思ったら三日も失踪して散々いろんな人に心配をかけ、挙句、隣の県の動物園で買って来たというパンダ焼きを携えて何もなかったかのように登校したこともあった(登校するやいなや、先輩の数少ない友人三名に囲まれてみっちりと説教をされていた。先輩はちょっとだけしおらしかったが、五分で飽きてパンダ焼きをかじっていたので余計に怒られていた)。そして長い長いお説教が終わったあと、俺のところに来ていつも通りの仏頂面で箱を押し付けてきたのだった。「おいしいらしいんだ」「なにがですか」「パンダ焼き」「はぁ」「読んでいた小説に出てきてな、ものすごくおいしそうだから、買って来た」「学校三日もサボってですか」「有給というやつだよ、メイ」「学生に有給はないでしょう、給料ないし」「出席しなくても単位がもらえるとか」「ありません、大体あったとしても万年遅刻魔でサボり常習犯の先輩には残ってないと思います」「ぬう、それじゃメイの分をくれたらいいじゃないか、有給」「だから有給システムなんかありませんし、あっても俺の分をどうして先輩にやらなきゃいけないんですか」「このパンダ焼きをメイのために買って来たから」「俺は頼んでません」「うむ、頼まれてない」「意味がわかりませんが」「おいしそうだったからきみに食べさせたかった、それだけだ」……あのときのやりとりは克明に思い出せる。それまで無表情だったのにいきなりにやりと笑って、うまいぞとパンダ焼きを突き出してきたときの悪ガキみたいなきらきらの目は、忘れようにも忘れられない。表情の乏しい人だったけれど、その分、時折見せる感情の発露は色濃く心に焼き付いていた。自分勝手に行動して、そのくせ不思議と嫌われない人だった(別段好かれもしなかったようだが)。わけのわからない人だった。いや、今も、わけがわからない。
「先輩」
 先輩は薄青い清潔な服(入院患者が着るお揃いの服、あれはなんというのだったか、病院なんかに縁のない俺は思い出せない)の裾をはたはたと風に遊ばせながら、ふわふわと現実感のない足取りで中庭を散歩している。ひやりとした白いタイルを踏む足は靴どころか靴下すら履いていない素足だ。学生の頃はすくなくとも靴下は履いていたのに(たまに上履きは脱いで、そして失くしたりしていた。校内で脱ぎ散らかして歩くなんて天真爛漫通り越して非常識か脳味噌が足りていないだけだ)。看護婦さんによると、先輩はいつも午後一時になると中庭に来るそうだ。病院中を歩き回っては好き勝手な場所に腰を下ろして小説を読み耽る様は学生時代とちっとも変わっていなくって、だからこの人が心を病んでいるなんて信じられなかった。どうしてこんなところにいるんですか、授業またサボるんですか――最初に見たとき思わずそう訊きそうになって、慌てて唇を噛んだものだ。それほどまでに、先輩は昔のまま、ここに居た。中途半端な長さの髪も自由気侭な性格が滲み出る顔つきも、何もかも。
 その心以外、すべて、昔のままで。
「あおいな」
 先輩の呟きにはっとして顔を上げる。先輩はぼんやりと、桜の木の下で空をみつめていた。はらりはらりと無限に降ってくる桜の花びらは先輩の服を薄青からほのかな紅色に染めつつあり、けれどそんなことにはさっぱり頓着せず、先輩は手をのばした。はらはらはらりはらりはらり、大樹から風にちぎられた薄紅が落ちて先輩の差し出した掌に落ちてゆく。
「何が青いんですか?」
「さくら」
 だめもとで訊いてみると、意外なことに先輩は答えてくれた。俺の方をみると、おいで、と手招きをしてくれる。学生時代と変わらないジェスチュア。ねえ先輩、ほんとは心を病んでるって嘘でしょう、またあなたのイタズラなんでしょう。記憶が壊れてしまって、俺のことすら覚えてないなんて嘘なんでしょう?
 先輩は何やらつらいことがあって(部外者の俺には知る由もない、酷くプライヴェートで、複雑な話、らしい。詳しいことは聞くべきではないだろうし、聞こうとも思わない)心を病み、記憶を殆ど失くしてしまった、そうだ。今の先輩の心は大体小学生くらいだと聞いた。それにしては随分と行動が落ち着いているなとも思うけれど、そもそも先輩の行動を常識ではかるほうがおかしいのかもしれない。昔から一人でこうしていたのだろう、この人は。元気良く日差しのしたで駆け回るよりは、ずっと先輩らしい気もする。
 卒業してから五年が経って、先輩のその後は断片的に何度か耳にしていたけれど、まさかこんなことになっているとは夢にも思わなかった。先輩。俺のことが好きだった先輩。どうしても受け入れられずに断って、だけど泣かずにそうかと笑ってくれた先輩。俺の声がすきだと、手がすきだと衒うことなく言っていた先輩。いつもなら滅多なことじゃ笑わなかったくせに、俺の言うくだらない冗談でひっそりと口の端をあげて笑ってくれていた先輩。
 ねえ、あなたが好きだと言っていた俺の声さえも届かないなんて、そんなのタチの悪い冗談なんでしょう?
「ここに立って、上をみると」
 先輩の隣に並んで、言われるまま視線を上げる。ざあざあと音を立てる桜の大樹と、怖いくらいの花びらが吹きゆく空。
「ほら、桜が透けてあおいだろう」
 ちょっと風が吹くだけで面白いくらいに花弁が舞う。視界の半分をまだ木についたままの桜花が、もう半分を青空と桜の花びらが埋め尽くす、豪華な景色。
 確かにそれは空に透ける巨大な桜の木のようだった。
「……ほんとうだ」
 泣きたいくらいに綺麗な。
 痛いくらいに壮絶な。
「もうじき春だ」
「そう、ですね」
「五月が来る」
「そうですね……」
 五月に出会ったから、きみのあだ名はメイ。そういわれて面食らったのは、八年前の五月だった。本名と全く関係のないそのあだ名を呼んでくれる人なんてもう居ない(そもそも高校の時だって呼んでいたのは先輩と先輩の友人何人かだけだった)けれど、それでも、今でも気に入っている。
「……せん、ぱ」
 ざああああ、とひときわ強い風が吹いた。今までとは比べものにならない量の桜が、雨のように降り注いだ。
「ああほら、また、あおい桜がふってくるよ」
 その表情のない顔で、けれど僅かに口の端をもちあげて、目をやわらかくかすかに細めた先輩は、本当にどこも変わってなどいなかった。苦しくなるくらいに、なにも、変わっていない。
 たまらなくなって俺はしゃがみこんだ。頭を抱えて顔を膝に押し付け、恥も外聞もなく泣きじゃくった。こうなった遠因が、自分が先輩を振ったせいだとは思っていない。そんなことで壊れるほど弱い人じゃない。だけどもしも俺が一緒に居たらこんな風になる前にどうにかなったんじゃないだろうか、なんて、どうにもならない、そして傲慢なことを思った。
「せんぱい」
 涙の合間に、呼んだ。先輩が自分を「先輩」として認識できていないのは、ここに来ている一ヶ月で嫌というほどわかっていたはずなのに、けれど先輩としか呼べなかった。今更名前で呼ぶのは卑怯な気がして、どうしても、その四文字しか口に出来ない。
「せんぱい」
 メイって呼んでください。いつもみたいに突拍子もないことを淡々とした口調で言って、困らせて下さい。なにあほなこと言ってんですか、って言わせてください。もう俺も先輩も学生じゃないけど、だけど、あのときみたいに、ばかなやりとり、しましょうよ。
「あおい桜が、雨みたいだ」
 降りしきる桜の中、足元でうずくまって泣いている俺なんか存在すらしていないかのように、あわく楽しげな響きをにじませた声で、先輩はうたうように言った。

      * * *

「乗らないのかい」
 懐かしい声と、懐かしい口調。あの春の日に会った先輩ではなく、学生時代、まだ先輩が壊れていなかったころ、の口調だ。ついに幻聴が聞こえるようになった、と苦笑して目を開ける。
 先輩が、まるで記憶から抜け出してきたみたいなそっくりそのままの姿で、俺の目の前に立っていた。
「……」
「なんだ、きみは。まるで幽霊か化け物でもみるような目だな」
「せん、ぱい」
「よしたまえ。もう『先輩』じゃあないだろう」
 暑苦しい黒のタートルネックとサマージャケット、硬そうな髪、相変わらずの仏頂面と眉間の皺。人より背の高い俺は、やっぱり、先輩を見下ろす格好になっていた。
「ようやく電車が動き出したみたいだぞ。まったく、暑い盛りになると脳を蒸された輩が沸くものだが、まさかこんなに長く足止めを食うとは思わなかった」
 やれやれ、とでも言いたげに肩をすくめて(無表情のままでその仕草をするのがすこしおかしかった)、もう一度「乗らないのか」と訊いた。いえ、と俺は首を振る。誰が待っているわけでもないですから、もうすこしあとの電車でも構わないんです。
「先輩、退院、されたんですか」
「ああ。先月な」
「……おめでとう、ございます、ですかね」
「たぶんな。ありがとう、――」
 にやり、といきなり唇を曲げ、とんでもなく性格の悪い笑い方をすると、言った。
「ありがとう、メイ。ワタシのために泣いてくれて」
「……っ!」
 出来るだけ忘れていて欲しかったことをばっちり持ち出されて、思わず顔が赤くなるのを感じた。この人の前で泣くなんて、俺も不注意なことをやらかしたものだ。
「……先輩、ずいぶんと性格が悪くなったようで。もっかい入院したらいかがです?」
「なに、性格が悪いのは昔からだ。きみが気づいていなかっただけだろう?」
 ホームを電車が出て行く。もう一度吹いた風に目を細め、先輩は言葉をなくした俺に向かって、今度は珍しいことに満面の笑顔をみせた。
「ほら、この風。またあおい桜が降るよ、メイ」



Fin



2007.9.1.sat.u
2007.4.3.tue.(8.31 加筆訂正)

 

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