ゆうぐれと散歩道

 僕は雨の日に外を歩くのが嫌いだ。下を向かずまっすぐに前だけを見て歩く癖がついているので、よく水溜りに足をつっこんでしまうのだが、そんなときは本当にいやになる。爪先や足の裏が濁った雨水で濡れる――うう、考えるだけでも不愉快だ。が、しかし残念なことに、僕は毎日定時に出かける散歩を雨ごときで取りやめられないほど愛している。よほど具合が悪くない限り、三百六十五日必ず出かけることにしている。それになによりも、今の僕には散歩を欠かすことの出来ない理由がある。
 僕は恋をしている。五月ごろ、散歩の途中に会ったのが最初だから、もう二月ほど経つだろうか。相手はアユムさんという小柄な女の子で、(多分この春から)近所のアトリエで絵を習っている。その帰りの時間と僕の夕方の散歩がちょうど同じ時間なので、頻繁に顔をあわせるようになり、そのうちに仲良くなったというわけだ。きゃしゃな焦げ茶のパンプスで一歩一歩を大切に歩く彼女に、アユム、という名前はよく似合う。マーメイドスカートをひらひらさせながらゆるく結んだふわふわの巻き髪をゆらして歩く姿は、いつ見ても新鮮にかわいい。
 いつもどおり、金木犀の近くの曲がり角で彼女を見つけた。声をかけようとして、彼女の様子がおかしいことに気づき、やめる。ぼんやりと宙を見ている彼女におずおずと近づくと、気配を感じたのか、三拍ほど遅れてから僕を見た。それからゆっくりと時間をかけて、「こんにちは」とぎこちなく笑う。
「ふられました」
 唐突な言葉に、僕は目を丸くする。アユムさんをふる男がいるなんて。なんてうらやましい、いやもったいない、違った、信じられないことだ。すごく控えめに言ってもアユムさんは抜群にかわいいし、性格だっていい。アユムさんをふった人は、いったいこれ以上どんなことを恋人に望むのだろう。
「奥さんがいらっしゃる方だなんて、今日ふられるまで知りませんでした。絵の先生に惚れるのは、よろしくないですね。うまくいっても、うまくいかなくても、大変よろしくない」
 うまくいって恋人になったら、ちゃんと絵の評価をしてもらえなくなる。うまくいかずふられると、アトリエへ通いづらい。画くことを好きなのと、先生を好きなのとは別問題ですのに、先方はそう思ってくださらない。まったく、惚れるなら相手を選ぶべきですね。そう言って、アユムさんは笑う。けれど、目はチワワみたいにうるうるしていた。よろしくない、と繰り返しながら、堪えきれなくなったのかアユムさんはぽろりと涙をこぼした。それをきっかけにアユムさんはしゃがみこんで、白いマーメイドスカートの膝に顔をおしつけ、小さくうめきながら泣きはじめる。僕は情けないことに、ただおろおろと彼女のそばを歩いた挙句、隣に並んで座ることしか出来なかった。とても不甲斐ない。
 アユムさんが泣き止むまでには、柿色をしていた空が薄墨に塗り潰されるくらいの時間を要した。僕は何も出来ずに、ただ泣いている彼女のそばに座っているだけだった。ブラウス越しの淡い体温と、それが包んでいる悲しみについて考えたりしながら。
「ずいぶんと、すっきりしました」
 そういって顔をあげた彼女は、目が少々腫れて赤くなっていることと表情がぎこちないこと以外は普段のアユムさんに戻っていた。こんな時間まで付き合っていただいて、申し訳ないことをしました。そう言って、すまなそうに頭をぺこんと下げる。
「お散歩の邪魔をしてしまいました」
 そんなことありません、と僕は首をぶんぶん振った。僕は散歩が好きだけれど、それ以上にアユムさんが好きだ。たとえアユムさんに好きな人がいることや、僕の恋は絶対に実らないことがわかっていても。くい、と破ってしまわないようにスカートのすそを噛み、頭をすりつける。僕なりの、精一杯の励ましの気持ちだ。伝わったのか、今度は自然な微笑を浮かべると、僕の首輪の辺りと耳の近くをわしゃわしゃと形のいい手で撫でてくれた。指先が、首輪についているプレートをちゃりちゃりと揺らす。今はもうアユムさん以外呼んでくれない、僕の名前が彫られた金色の四角いプレート。
「クッキーはいいこですね」
 かつて飼い主がくれた名前を呼びながら僕に触れる彼女の掌の感触に、ひどく悲しくなる。僕が彼女と同じ言葉を喋れたら、もっとうまく慰められるだろうに。彼女と同じ形をしていれば、腕を伸ばして抱きしめてあげられるのに。
 まったく、惚れるなら、相手を選ぶべきですね。アユムさんの言葉が蘇って、ひどく胸が痛くなった。惚れる相手を選べたらいいのに、なんだって、僕も彼女もわざわざ難儀な恋をするのだろうか。
 アユムさん、大好きです。思いをこめた一声も、けれどアユムさんには、わおん、という犬の鳴き声にしか聞こえないことくらい、僕はちゃんと知っている。



Fin



2007.11.24.sat.u
2007.5.15.tue.w(11.23 加筆/09.3.7 再加筆・修正)

 

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