彼の手

 彼について私が覚えていることはあまりない。
 いや、覚えていないのではなく、実際に私は彼のことを殆ど知らないのである。
 私は彼を松本と呼んでいた。下の名前は知らない。私は自分の名前を嫌っているので教えたはずもなく、だからきっと彼も私の名字しか知らなかったことだろう。
 松本は痩せて背が高く、私は小柄だった。並べば頭一つ分以上は段差が出来る私たちは、まるで兄妹のように見えたことだろう。だから、という訳ではないだろうが、私は松本の顔を覚えていない。まさか一度も見なかったことはないだろうが、人の顔を覚えることが不得手な私は、敢えて彼の顔を見てみようという気にはなれなかったのである。それに、見あげるのは自分の身長を自覚させられるようで癪だった。子供っぽい意地だ、と、笑いたければ笑えばいい。
 私は高校生だった。松本の年は知らない。洒落たブレザーを制服にする学校が増えたせいか、今ではすっかり珍しくなってしまった味気ない黒の詰襟を着ていたから、少なくとも学生ではあったはずなのだが。
 彼の背中は身長に比例して広かったが、お世辞にも厚いとは言えなかった。薄っぺらな体つきに似つかわしく腕も首も細く、そのせいか華奢というよりはただアンバランスなだけの、どこかちぐはぐな印象を残す体つきだった。
 広い背と、細い腕と、それから落ち着いた声。
 私の覚えている松本は、それで全てである。

 松本と私の関係について説明することは易しくない。
 友人というにはあまりにも互いに無関心すぎた。知人の二文字で片付けるには深すぎる交誼だった。恋人などでは断じてなかった。据わりのいい言葉やわかりやすい説明はどれもこれも一般的な交際の上辺をなぞるだけで、私たちの付き合いを指すにはどうしようもなく迂遠である。
 ここはわかりやすく、実例を引こう。
 私が歩いていると、いつの間にか隣を松本が歩いていて、気が向けばぽつりぽつりと言葉を交わす。そして現れるときと同じように、挨拶もなく松本は居なくなっている。勿論、歩いている松本の傍に私が現れる場合もある。約束をして会ったことは一度もない。ただ、気の向くままにふらりふらりと歩いていると、何故だか松本もさ迷い歩いているのである。所謂バイオリズムというものが一致しているのかもしれないが、私たちにとって大切なのは何故散歩に出たかという理由ではなく、二人が並んで歩いているという結果のみであったので、深く突き詰めて考えたことはない。
 私と松本の関係は、つまりそういうものなのだ。


          ■


「三森」
 声と一緒に、缶紅茶を渡された。礼を言って受け取り、プルタブに指をかける。この前割れてしまったせいで短く切りそろえたばかりの爪では、少し開けづらい。松本の笑い声が聞こえた。
「はい」
 開けたばかりでのんでいないから大丈夫、と言って差し出された松本の缶と、未だにびくともしない私の缶を交換した。狭い飲み口からは紅茶味の湯気がふうわりと匂いたつ。缶紅茶の、つくりものじみた過剰なまでの匂いが、私は結構好きである。松本はどうだか知らないが、缶の紅茶を奢ってくれるくらいなのだから、少なくとも嫌いではないのだろう。
 開けたばかりでのんでいないから大丈夫。松本の言葉を反芻し、私は紅茶を啜りながら考える。開けたばかり、という部分と、のんでいない、という部分のつながりは理解したが、何故そのふたつが大丈夫、という単語につながるのかは、私にはわからなかった。そういうと、松本は紅茶で喉を湿してから静かに答える。
「気にする人もいるから、一応言った」
「気にする? 何を?」
「他人が口をつけたものに、自分の口を付けたくない、ってことだよ」
 私にはわからない考え方だった。直接唇を重ねるならともかく、ただ他人の唇が当たっていただけの物体に口をつけることは、気にするべきことだろうか。
「馬鹿らしいなあ」
 理解できずに肩をすくめると、また松本は笑った。見ずとも表情の想像できるような、朗らかな声である。
「三森のそういうところ、いいね」
「ありがとう」
 前を向いたまま、言った。松本の顔を見ない一因として、私たちが会うときは常に歩いていて、しかも私は幼少の時分からの教えによって「余所見をしながら歩く」ということが出来ない性格をしていた、というものも大きかったかもしれない。ちなみに私が余所見をせずに歩けと教えられたのは、あまりにも注意力が散漫すぎるせいであちこちにぶつかったり転んだりしていたのを母が見かねたからである。実際、そう注意されてから私の生傷は格段に減った。
「俺も馬鹿らしいと思う」
 松本が同意する。落ち着いたその声は、否定的な内容を含んでいるというのに優しく聞こえた。
「ああ、でも、風邪の人とか虫歯の人は嫌だな。衛生的に良くない」
「虫歯も?」
「うつるって聞いたよ」
 私は歯が強い。学校の歯科検診以外で歯科医の世話になったことなど一度もない。特別丹念に磨いているつもりもないから、元々の歯が虫歯になりづらいのだろう。故に、虫歯という疾患についての知識は殆どない。
「うつるものだったんだ」
「嘘かもしれないけどね」
 缶の紅茶はいやになるほどねっとりと舌に甘い。きっときわめて馬鹿げた量の砂糖が使われているのだろう。甘い甘い缶紅茶は、虫歯の媒介にはうってつけのもののように思えた。
「缶の紅茶でうつるなら、虫歯くらいは許容できるな」
「痛いよ、虫歯って」
「へえ」
 そのあと、私たちは暫く黙ったまま歩いた。松本が何を思っていたかは知らないが、私の頭の中は増殖する虫歯菌で一杯だった。唾液と紅茶でぬらぬらと濡れ光る、無数の小さないきもの。それがどのように歯を溶かすのかを数パターン想像したところで紅茶が尽きてしまったので、近くのゴミ箱に缶を放り込む。
 いつのまにか松本はいなくなっていた。


          ■


 松本の手は愕くほど白く、また美しかった。
 美しかった、と言っても、「雪のように」や「白魚のように」という冠をつけるに値するかと訊かれれば、否と答えるしかない。松本の手の美しさは、そういう類いのものではなかった。
 指は枯れ枝のように細く、それでいて妙に節が目立つ。竹のような、というのが一番わかりやすい比喩かもしれない。色は不健康な白で、常に手首から血が抜けているのではないかと思わせるほどに病的でさえあった。肌理は細かかったが、保湿をしないせいだろう、がさついてどこか爬虫類めいている。艶のない筋張った手と腕。しかし松本よりも美しい手を持つ人を、私は見たことがない。
 松本はその不恰好とさえ思えるほどに薄く大きな手で様々なことをした。
 本の頁をめくる。缶のプルタブを開ける。靴の踵を広げて足を押し込む。鞄を肩にかけなおす。詰襟の金釦を外して息をつく。宙に字を書く。星を指す。花に触れる。缶の紅茶をのむ。ポケットから飴を取り出して私にくれる。
 右手の中指と親指の腹をこすり合せるのは何かを思案しているときで、それぞれの手で反対側の肘を握るように腕を組むのは困ったり照れたりしたときの癖だ。顔など見ずとも、彼の手は克明に心情を教えてくれる。
「美しい手」
 私がそう言うたび、松本は肘を握るように腕を組みながら、
「ありがとう」
 そう、笑みを含んだ声で答えた。


          ■


 私たちは夜中に出くわすことも少なくなかった。コンビニで飲み物や軽食を買って出てくると、隣に松本がいたりするのである。私たちはチョコをねぶったり飲み物の缶で手を冷やし(或いは温め)たりしながら、一緒にアスファルトを踏みしめるのだ。
 だからその夜私と松本が並んでココアを飲みながら歩いていたのも、全く不思議な出来事ではなかった。
 ココアの缶で手をぬくめながら歩いていた記憶があるから、あれは確かに冬のことだった。松本は黒いジャケットに洗い晒しのジーンズ、私は濃紺のピーコートと緑のマフラーに踵の低いふくらはぎ丈のブーツで、しんしんと夜の道を歩いていた。
「マフラー、いい色だね」
「ありがとう」
 松本はしばしばそういって私の服を褒めた。生憎と服の良し悪しも流行も知らないので、自分の楽な格好を選んでいるだけなのだが、それが松本の好みにたまさか合致するようなのだ。大抵の人がそう思うのと同じように、力を入れていないところでいい評価を貰うのは誇らしくもあり面映くもある。
「松本はマフラーしないの」
 まさか首元を特別に見たりはしないが、彼がマフラーを巻かないことは知っている。彼の肩口にマフラーが揺れているのを見たことがないからだ。コートを着込んでいるところも見ないので、彼の防寒はジャケット一枚ということになる。寒さに弱い私にとっては到底信じられない話だ。だから質問はしごく尤もであったといえるだろう。
「苦手なんだ」
「マフラーが?」
「正確には、マフラーを巻くのが」
 布きれを首にぐるぐる巻きつけるだけのことに、得意や苦手があったとは初めて知った。私は首をひねり、その拍子にゆるんだマフラーをふわりと巻きなおす。たったこれだけの動作が苦手なのだろうか。松本はやはりよくわからない男である。
「松本はこれが出来ないの?」
「うん」
 俄かには信じがたかったが、試しにマフラーを渡してみても手でもてあそぶばかりで、首の辺りへ持っていくことさえしなかった。いわく、諦めているのだそうだ。
「三森はマフラーをまくの、うまいよね」
「上手い下手とかあるのかな」
「すくなくとも、俺は下手」
 肩をすくめて、松本は朗らかに笑った。はい、とマフラーを返してくる手は、やはり夜闇の中でも変わらず美しい。
 左手の甲には、小さいが古そうな傷跡が一筋盛り上がっていた。それから、まるで地下鉄のように縦横無尽に敷かれた血管が透けて見える。少し指を動かすだけで、皮膚全体が独立した生き物のようにすべらかに動いた。もしや彼の手の甲には擬態した何か(肉食の昆虫か、さもなければ爬虫類のようなもの)が棲んでいるのではないか、と馬鹿げたことを思わせるほどに。
「三森?」
 マフラーを受け取らない私に、松本が訝しげな声を出す。ああ、と上の空で受け取り、また首にくるくると巻きつけると、
「美しい手」
 と、いつものように言った。
 松本もやはりいつものように腕を組みながら、
「ありがとう」
 吐息のような声で、笑うのだった。


          ■


 一度だけ、松本と手をつないだことがある。
「手をつなぎたい」
 そう言ったのは私の方だ。松本はどうして、とも、いいよ、とも言わずに、黙って手を差し出した。
 松本の手は骨ばっていて大きく薄く、しかし、見た目よりはすべらかである。指の腹でさわさわと撫でながら、私と松本はいつも通りのペースで歩いた。
「くすぐったい」
「駄目?」
「良いけど」
 そういって、松本がひっそり笑う気配がした。私も笑った。
 松本が私の顔を見ていたのかは知るよしもない。私はいつも通り、ただまっすぐに前だけを見て歩いていたからだ。
 それまでにも物を受け渡したりするときに手が触れ合ったりすることは幾度かあったが、私と松本が明確な意思を持って相手に触れたのは、前にも後にもその一度きりだ。


          ■


 松本の手は愕くほど白く、また美しかった。
 そして彼の骨もまた、同じように白く美しい。
 私の目の前には、火葬の後拾ってきた彼の手の骨がある。
 死んだことは知らなかった。連絡先も住所も互いに知らぬのだから、知らせが来る方が面妖である。
 ただ、いつも通りふらふらと歩き回っていたら、葬式をやっている家の前を通ったのである。これも何かの縁であろう、と参列してみれば、棺の中に横たわっている人物の手は松本のものであった。
 どうやって骨を貰ったのかは覚えていない。参列者も、松本の葬式を出したであろう親族のことも覚えていない。ただ、松本らしい式だ、とだけ思った。
 そして、手の骨は私のところにある。大切なのはどうやって貰ってきたかではなく、ここに松本の骨がある、その事実のみだ。私たちの関係がそうであったように。
「松本」
 小さく、呼んでみた。
 白い骨はそのくすんだ色をぬらつかせるばかりで、何も言わない。
「松本」
 たしかに友人ではなかった。けれど知人という言葉で片付く関係ではなかった。恋人と呼ぶにはあまりにも冷静すぎた。ソウルメイトなどと呼べるほど美しく強固な絆はなかった。私たちはただ、一緒に歩くだけだった。
 けれど、その「だけ」に、言葉を尽くしても説明しきれぬほどの何かが、確かに含まれていたのである。
 私たちのシンプルで奇妙でどうしようもなくありふれた、それゆえに特別なこの関係を表すことのできる簡潔な言葉は、おそらくまだ、この世界に生まれていないのだろう。
「松本、」
 一足先に、似合いの言葉をそちらの世界で探しておいてくれないか。
 私は静かに笑って、骨をつまみあげた。
 白く、美しい、松本の手そのもののような骨は、けれど松本の手と違ってひどく軽い。
 その仄かな重みを掌に載せたとき、私の体はようやく、松本が死んだことを知った。


Fin



2008.3.24.mon.u
2007.11.9.fri.w

 

back / index