現し美し

 省兄ィと会ったのは父の葬儀以来のことだから、約十二年ぶりのことだろうか。
 鶴のように痩せた体で背筋を伸ばし、暮れかけの夕陽を背にしてすっくりと立つ姿は、抜き身の日本刀のようである。金ピカのロレックスにギラギラ光るブレスレット、派手な原色のシャツとダークスーツの胃もたれしそうな組み合わせが、軽やかで洒落た格好に見えるのはとても不思議だ。鋭い三白眼を濃いグレーのサングラスで隠し、薄い唇を曲げて笑う。まるで映画のスクリーンから抜け出てきたようにシブい。シブいが、どこからどう見てもカタギには見えないし、実際省兄ィはカタギではない。
 省兄ィ本人の言葉を借りて言うならば、彼は「食いつめた若者が、自衛隊に入るかヤクザの門を叩くかのどちらかしかできなかった悪い時代の遺物」である。
「相変わらずのヤクザ面ね、省兄ィ」
 親子ほども年の離れた私の厭味に、省兄ィはやれやれと言いたげに笑った。まるでこまっしゃくれた幼い姪をやさしくなだめるときのようだ、と思って、私は不愉快になる。きっと省兄ィの中で、私はいつまでも小さな子供のまま時を止めているのだろう。
「俺ァヤクザなんだから仕方ねえだろう。エミちゃんこそ、名前に似合わねェ仏頂面しやがって」
 エミちゃん、と呼ばれるのが久しぶりすぎて、一瞬戸惑ってしまった。
 私の名前は笑う子供と書いてショウコである。エミコだのエミだの呼ぶのは、省兄ィただ一人だ。干支が一巡りするほどの間きくことのなかったそのあだ名が耳にしっくり馴染むことに驚き、そしてまた腹が立った。
 そもそもの発端は、私が小学校に上がった年のことである。私の家に遊びに来てくれた省兄ィと外を散歩した次の日、私を可愛がってくれていた近所の主婦に軽蔑を含むねっとりとした視線をむけられた挙句、「ヤクザと付き合いがあるなんてろくな子にならないわ」と吐き捨てるように言われたのだ。今よりもシブみが足りない分ただのチンピラだった省兄ィは、いかにもヤクザでござい、という格好をしていたから、平和な街の主婦がそう言いたくなるのも仕方なかったのだと今なら分かる。が、勿論当時の私にはわかるはずもない。幼い私にはただただ優しかった彼女の豹変ぶりが恐ろしく、家に帰るなり泣きながら母を質問攻めにした。
 やくざってなに? 省兄ィはわるいひとなの? わたしは省兄ィとつきあいがあるからろくなこにならないの? わるものの省兄ィと同じ「ショウ」がつく名前なんかやだよ、ショウコなんて名前にしないでよ、エミコがよかったよ――ばたばたと暴れながら泣く私を、母は困り顔でひたすらなだめていた。
 あとからその顛末を聞いた省兄ィは、私をショウちゃんではなくエミちゃんと呼ぶようになった。もう二十年ほど前の話だというのに、未だエミちゃんと呼び続けているのは、性格の歪んでいる私にとっては律儀さの表れではなくただのイヤガラセとしか思えない。
「せっかくいい名前ェ貰ったんだからもっと笑えって。義姉さんそっくりの別嬪が勿体ねえよ」
 これでいいか、とばかりに、私はフンと鼻で笑ってみせた。
「生憎だけど、私はホホエミのエミコじゃなくて、チョウショウとかシッショウのショウコだから。私が笑うんじゃなくて、私を見てみんなが笑うのよ」
「あーあ、誰に似たんだァ、そのひねくれかた」
 誰に似た訳でもない。父も母も善意と良心をこねくりまわして人型にしたような、素晴らしい人格者であった。私だって昔は(自分で言うのもなんだが)その父母の善さをそっくり受け継いだ素朴で心根の優しい子供であった。ただ、芸大に三年続けて落ち、ツテを頼って雇ってもらった画廊でバイトをしながらどうにか絵を描いているという不安定な生活が、私の性格を歪めていったのである。偏屈な芸術家、と言えば聞こえはいいが、ようするにただの社会不適合者だ。画廊のバイト代とごくたまに売れる絵の売り上げで、どうにかプラマイゼロの収支を保っている。赤字にならないのは我ながら奇跡だとしか言いようがない。
 ジャンルで言えば、私はいわゆる前衛芸術家である。しかし前衛的すぎて全く評価されない。評価されない、絵の売れない絵描きはただのごくつぶしである。二十六にもなってフリーター同然の暮らしを続ける私を心配しながら、三日前に母は逝った。持病の心臓病が急に悪化し、発作を起こした挙句、一人で死んだのである。私を心配しすぎて心臓をすり減らしたのだろう。
 急すぎてまだ本当のこととは思えず、したがって涙も出てこない。
 結婚しろ、とも、夢を諦めろ、とも言わず、ただ「笑子の人生は笑子のものだから、悔いの残らないようにしなさい」と静かに言ってくれた、かけがえのないひとだった。
 自分がこの先一生独り身を貫くことになっても不幸だなどと思わないが、無類の子供好きだった母に孫を抱かせてやれなかったことは、取り返しのつかない失態として私の心を澱ませた。
「なあ、エミちゃん――」
 煙草を取り出し、粋な仕草で火をつけながら、らしくないことに省兄ィは言葉を捜しあぐねたように宙を見た。エミちゃん、と呼ぶ声の、風貌に似合わぬやわらかな響きに撫でられて、私の肌が粟立った。ヤクザのくせに、と口の中だけで呟く。ヤクザのくせに優しい声を出すなんて。
「義姉さんのこたァ、エミちゃんが悪いわけじゃねえよ」
「……」
「同じ家にいたんならともかく、借りてるアトリエにいたんじゃあ気づけるわけがねえだろう。まさかニトロ切らしてるなんて思うはずもねえし」
 心臓病の発作に対する特効薬が、何故あの日に限って母の首にさげたお守り袋から消えていたのだろう。立て続けに発作を起こして切らしたのだろうか。今更ながら、母の病について何も知らなかったことに気づいて愕然とした。
(笑子は自分のこと、全部一人でしてるじゃない。母さんが自分で自分のことするのも当たり前よ)
 そんなことを言って、通院も家事もすべて自分でやっていた。担当医から、寝たきりになってもおかしくないほどの重症だったと聞かされたのは昨日の通夜でのことである。苦痛に満ちた生活を過ごしていたはずの母の口から、愚痴めいたものを聞いた記憶はない。どこまでも静かな人だった。そして、静かなまま逝ってしまった。
「フリーターの娘に絶望して、間接的に自殺したのかしら」
 自嘲して、唇をゆがめた。そんなはずがないことくらい知っている。
 十四のときに父を亡くして以来、女手ひとつで私を育ててくれた母は、世界にたった一人の理解者だった。
 芸大に落ち続けて塞ぎこみ、部屋にひきこもったときも、絵のことはわからないけど、あんたが納得行くまで頑張るなら母さんはそれを応援するよ、というようなことを言いながら毎日食事を運んでくれた。
 自分の描く絵さえ嫌いになって泣きながら作品をすべて焼こうとしたときは、体を張って止めてくれた。笑子が残してくれたかけがえのない作品をパアにする権利なんて誰にもない、作者のあんたにもないのよと私の手に持っていたライターを叩き落として泣きながら説教をしてくれた。
 画廊のアルバイトが決まったときは、赤飯と私の好物を用意して祝ってくれた。
 お人よしの画廊の主人さえ困ったような顔で評価を口ごもる私の絵を好きだと言い続けてくれた、たったひとりのかけがえのない人だった。
 世界のどこを探したって見つからない人を、私は一人で死なせてしまった。
「どうした、エミちゃん」
 頭に厚みのあるあたたかなものが触れた。撫でられているのだ、と気づくのと同時に、私はうずくまって子供のように泣いた。吸いさしの煙草を踏み躙って火を消し、省兄ィは思いがけないやさしい手つきで私を撫でる。
 魔物のような悲しみに抱きすくめられて、私は息も出来ないほどぼろぼろに泣きじゃくった。
「どうしたじゃないよ。もう誰もいない、私、ひとりぼっちになっちゃったよ。もう誰もわかってくれない、私の絵は難しすぎるからみんなわかってくれない。おかあさんしかわかってくれなかった。おかあさんがいなくなっちゃったら、私、ひとりぼっちじゃない。ずっとずっとだれにもわかってもらえずにひとりぼっちじゃないの」
 母を亡くした哀しみに押され、気づかないうちにためこんでいた泣き言が唇をついてどろどろとあふれでた。毒を吐きつくすようにわめく私の頭を、省兄ィは黙って撫でてくれる。ヤクザのくせに、ともういちど思った。ヤクザのくせに優しいふりしないでよ。省兄ィなんかわるものじゃないの。
「きれいな絵を描いてるつもりなのに、みんなきれいじゃないっていうの。私の絵、ぜんぜんきれいじゃないって、わけがわからないっていうの。みんながおかしいのよ。どうしてあんなにきれいな絵を描いてるのに、誰もきれいって言ってくれないの」
 前衛芸術だ、といわれるけれど、私は自分の思う一番美しいものを描いているだけのつもりだ。ただ私の思う美しさと、世間一般の美しさが噛みあわないだけなのだ。
 ふと、私の頭を撫でる手が離れた。磁石に鉄が引き寄せられるように顔をあげると、省兄ィが新しい煙草を出していた。
「エミちゃん、それァ違うだろう――」
「違う、って」
「エミちゃんの絵がきれいだと思われないのは、みんながおかしいからじゃねえよ。エミちゃんの絵が悪いんだ」
 芸術を解さないはずの叔父の言葉に、私は噛み付いた。
「なによ、美意識もクソもないくせに。派手ならなんでもいいって思ってるヤクザなんかに、私の絵はわかんなくて当然よ」
「それが違げェって言ってんだ、エミコ」
 ドスがきいているわけでもないのに、ずしりと腹に響く声だった。省兄ィの声の重みに、否応なく私は黙らされる。
「おまえの絵は、おまえが見てきれいだと思う絵を描いてるだけじゃねえか。おまえがきれいだと思ったもんを、他のヤツらにきれいだと思わせる絵を描くのが芸術ってやつじゃねえのか」
 あまりにもまっすぐな真実をつきつけられて、私は言葉を失った。
 春の夜の薄闇には到底馴染まぬ原色のシャツに、やたらと光る金の装身具。人並みの美的感覚があればすぐにでも脱ぎ捨てたくなるような格好をしているはずの省兄ィが、なぜ私よりも芸術というものの本質を見抜いているのだろう。
 色気さえ漂う手つきで火をつけ、空を見あげながら省兄ィは煙草を喫った。フッと吐き出された紫煙が、薄青い夜闇に細い筋を描いて昇ってゆく。
 ザアッと音を立てて風が吹いた。盛りを過ぎた夜桜が、驟雨のように省兄ィを包む。
 神のあたえたもうた一幅の絵に、私は涙を忘れて見入った。
 唐突に、描きたい、という思いが真ッ白の胸にコトンと落ちてくる。この光景を描きたい。忘れるまいとして咄嗟に掌に指でスケッチした。指先がブレてうまく構図をとれない、と思ったら、肘からがくがくと震えていた。細く、狭い世界しか知らない腕に、美しさの重みがずしりとこたえている。
 自分が今まで美だと信じてきたものの軽さに、私はただただ愕いた。
「省兄ィ……」
「ん?」
 サングラスの奥の目は、答える声と同じくらい優しげであった。
 父と同じ血の流れている人が優しくないはずがない。ヤクザだというだけですべて嘘だ、省兄ィはわるものだとつっぱねていた自分には、そんな当たり前の事さえわからなかった。
「省兄ィの絵、描いてもいいですか」
 たったひとりの血縁は、うすく微笑んで頷いた。
 アトリエに帰ろう。さっきの省兄ィを絵に描こう。うまくいかないかもしれないけれど、思ったとおりに描けないかもしれないけれど、それでも今まで描いた中で一番美しい絵になるはずだ。
 初めて専用のスケッチブックと二十四色入りの色鉛筆を買ってもらった日と同じくらい胸が高鳴っているのを感じて、私は微笑んだ。
「お、やっと笑ったな、エミコ。いいねえ、やっぱり別嬪は笑うのが一番だ」
 そう言って自分も笑う省兄ィに首を振って、答えた。
「ショウちゃん、って――笑子、って、呼んでよ」
 私は顔中で笑った。何年かぶりの、心からの笑顔だ。
 今ならきっと、誰もが美しいという絵を描ける。
 降りしきる薄紅色の雨を抱きしめて、私はそう確信した。


Fin


2008.4.18.fri.u
2008.4.18.fri.w

 

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