夜子さんとぼく

 夜子さんの本名は誰も知らない。
 夜子さんというのはぼくらの町のはずれに住んでいる(というより棲んでいるという字のほうが似合う)真っ黒な髪と真っ黒なワンピースを着た女の人のことだ。やけに肌が白くて、へたをすると死んでるんじゃないか、とおもわせるくらいだ。
 夜子さんという名前はぼくのクラスの翔一という悪ガキ(五年一組の問題児であるとともにみんなの人気者である)が言い出した。全身まっくろで夜みたいだから夜子。そのまんますぎる、とみんなは笑ったけれど、誰も反対はしなかった。だってあんまりにもぴったりで、しかもきれいな名前だったから。
 その日から夜子さんは夜子さんになった。次の日には町の誰もが「夜子さん」と呼ぶようになっていたのだ。まったく翔一おそるべし、である。

 ぼくがはじめて夜子さんと喋ったのは、とりわけ冷え込んだ日の夕方だった。
「うー、寒み寒み」
 手袋のうえからはあっと息を吐きかけて、翔一の家から小走りに帰る途中のことだった。歩くと四十五分もかかるこの帰り道で何故自転車を使っていないのかといえば、マウンテンバイクはぼくの無茶な運転に耐えかねたのかタイヤがパンクしてしまい、しかたなく修理に出していたため他に帰る方法がなかったのである。
 うしろからぺたぺたとちいさな足音がして、ぼくはぎょっと体をすくませた。気のせいだ、と思いたかったのだけれど、あいにくはっきりと幻聴がきこえる原因が思い当たらない。ああ、自転車があれば思いっきり全速力で立ちこぎをして振り返らずに帰れるのに。
「…………」
 へんなおばけがいたらどうしよう、とこのまえ貴一が教室で話してくれた怪談を思い出しつつちょっとだけ振り向いてみる。
 生きているのかどうかさえわからないくらい真っ白な素足でアスファルトをふみしめ、まっくろなすとんとしたワンピースとカーディガンを着た夜子さんが、せらっと立っていた。
「……こ、こんばんは」
「こんばんは」
 夜子さんの声は冬の空気にぴったりの音だった。透明でつめたく硬い音。ダイヤモンドが喋ったらきっとこんな声だ。
 夜子さんに関する様々な噂の一つに夜子さんは声帯を傷つけられた歌姫で、だから喋れないのだというものがあり、ぼくはその説を結構気に入っていたのでちょっとだけがっかりした。けれど夜子さんの声はそれをうわまわる勢いですばらしい。
「どうしたの」
「いや、あー、しょ、翔一の家から帰る途中で、あっ、翔一ってぼくの友達なんですけど」
「そう」
「夜子さんはどうしたんですか」
 訊くと、一瞬のまができた。夜子、と夜子さんはおうむがえしにつぶやいて、「それはわたしのことかしら」と言った。黒目のおおきな、つよくてまっすぐの視線。
「あ、そうです」
「そう」
 夜子さんはすこし考えるふうな仕草をしてから、もういちど、そう、と言った。本名ではない名前で呼ばれるのはどんな気分なのだろう。もしかしてとても失礼なことをしているのではないか、とぼくは急に不安になった。
「あの、夜子さん」
「なに?」
「本名で呼んだほうがいいなら、そうします」
「……いいわ」
 承諾なのか否定なのかはかりかねて首をかしげると、「夜子でいいわ」といった。
「夜子ってきれいな名前ね」
 夜子さんはぺたぺたと裸足で歩きながら、ちいさく息を吐いた。夜子さんの肌とおなじ、まっしろな息がふわりと現れて消える。
「わたしは散歩してたの」
「え?」
「『夜子さんはどうしたんですか』って訊いたでしょう?」
 夜子さんはまたふわりと息を吐いて、それからその息が白くなってからまた透明になるまでの短い間だけ、うすく微笑んだ。とてもきれいな笑顔だった。思わずどきっとして、足が止まってしまう。
「それじゃね」
 うたうように言って、夜子さんはぺたぺたと帰っていった。その背中が闇に溶けていくのをみながら、ぼくはずっと立ち尽くしていた。
 幼い恋だと笑うかもしれないけど、恋におちる瞬間なんて、たいてい誰でも同じだとぼくは思う。あのときの夜子さんの笑顔は、そういう類いのものだったのだ。

 とにもかくにも、これが夜子さんに関する記憶の一部である。
 他の話は、またいずれ。


Fin


2008.5.20.tue.u
2007.12.28.fri.w

 

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