水なき海の人魚姫

 病室は青かった。床中に敷き詰められたりんどうの鉢植えが、どこもかしこも真っ白な部屋に映えているのである。彼は病室を見回し、ふ、と息を吐いた。それから手に持っている、今日の日付が入ったカード付きの鉢をあいたスペースに置いた。彼女はベッドの上からそれをみてうっすらと微笑む。りんどうに添えられたカードの日付は半年前から休むことなく続いており、それぞれ持ち込まれてから経過した時間の分だけ成長しているので、丈はまちまちである。りんどうの群れをかきわけ、椅子を出そうとしたがスペースが足りない。開きかけていたパイプイスを元の位置に戻して、彼は彼女のベッドの傍に立った。彼女は彼の袖を引き、りんどうの群れを指す。ふ、ともう一度息を吐いて、彼は彼女を抱き上げた。白く薄っぺらな布団がめくれ、彼女の足が現れる。ワンピースタイプの入院着の下には細く白い足がある。尤も、ある、と言っても、それは両方とも太腿の半ばで唐突に消失しているのだが。包帯で先端を覆われた足から目をそらした彼女は、先ほどよりも強く彼の服を引っ張る。彼は肩をわずかにすくめ、部屋の真ん中に立った。床に敷き詰められた鉢が、そこだけはぽっかりとなくなっている。あけられているスペースは、彼女が横たわるのに丁度いい大きさだった。ゆっくりと彼女をおろして寝かせる。彼女は目を伏せ、緩慢な動きで体の両脇に下ろしていた腕を片方ずつ持ち上げては耳の脇につけることを繰り返す。虚空を掻く手が次第に早くなり、それにつれて腕の入れ替わるタイミングも早まっていく。息もゆっくりと長いものから次第に短く変わり、間隔が狭まる。彼は彼女の傍から離れ、ベッドの傍に戻った。視線を下げると、ベッドの下の箱に乱暴につっこまれた、紺とオレンジの競泳水着の端が見える。それを丁寧に畳んできちんと箱の中にしまいなおし、彼女のところへ戻った。彼女はまだ空を掻いている。先ほどと違っているところといえば、頬に涙が伝っていることだけである。ついに腕を止め、顔を覆って泣き始めたのを見て、彼は彼女を抱き上げベッドに戻した。髪を手櫛で梳きながら、彼女が泣きやみ眠るまで、ベッドの傍にいた。
 りんどうの海は、明日になればまた鉢ひとつぶんだけ病室の床に拡がる。


Fin


2008.6.3.tue.u
2007.10.29.mon.w

 

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