十八年目のエンドロール

 かつて慣れ親しんだ駅に降り立った途端、少し気の早い初夏の陽射しに灼かれ、牧野正造は思わず目を細めた。
(十八年振り、か――)
 既に三十路も後半に差し掛かった己の年齢から、高校卒業時の十八歳を引けばそういうことになる。
 もちろん、この年になるまで里帰りをしなかったわけではない。牧野が住んでいたのはここから駅五つほど東京寄りの、山を拓いた新興住宅街だったから、高校のあるこの駅までくる必要がなかったのである。できればもう二度と来たくなかった、と牧野は思った。
 ここに来たくないがために同窓会もずっと断り続けてきたのだが、今回はどうにも口実が見つからなかったのだ。生憎依頼されていた翻訳は軒並み片付いてしまっていた。妻にも「あなたの書斎を掃除するから出てきなさいよ」と追い出された。酒もギャンブルも嗜まないし、映画を見ようにも最近は興味をそそるものがない。本屋に行けば棚に入りきらぬほど資料や小説を買ってしまって妻に叱られる。年若い愛人を呼び出そうにも、丁度仕事が立て込んでいて牧野に構っている暇などないとつれない返事だった。きりりとしたショートカットの妻とは正反対の、茶色いセミロングをかきあげながら、甘ったれた猫のように目を細めているのが容易に想像できる声で「いそがしいの」と言いあっさりと電話を切ってしまった。
 しかし学生時代の打ち上げとは訳が違うのだから飛び入りなぞ無理だろう、と幹事に電話をしたところ、一人キャンセルが出ているから気にしなくていいと快諾され、妻にごねることもできなくなった。
 要するに、暇つぶしが出来ないから、と仕方なしに出席を決意したのだった。
「マッキー!」
 改札を出たものの、指定の店がわからずどちらへ行こうか途方に暮れていると、懐かしい声がかかった。思わず、同じくらい古いあだ名を呼ぶ。
「……みっちゃん!」
 白い日傘をさし、シャツの襟をはたはたとひるがえしながら走ってくる元同級生の姿に、牧野の心臓が大きく跳ねた。
 何もかも変わっていない。華奢なつくりの体も、長い睫毛も、色素の薄いセミロングの髪も、人懐っこい笑顔も。いささかレトロな服装も、活動写真から抜け出してきた登場人物のようによく似合っている。十八年の歳月を経てもなおこれだけの透明な幼さを保ち続ける美里は、もしかすると人間ではないのかもしれない。
 大きく振る左手の薬指に、見覚えのある華奢な指輪がはまっているのを見て、牧野は思わず目を伏せた。やはり来るべきではなかった。
「よく来たね、マッキー。遠かったでしょ」
「ああ、いや……そうでもないさ。年取ると時間があっというまだ」
「まだ三十路じゃない」
 おまえもだろ、と言いかけて、口をつぐんだ。美里には三十六歳の人間が持つべき相応の熟した雰囲気も、落とせない垢のような過去の匂いもなかった。
 十八の美里と放課後のデートをしているような錯覚に襲われ、牧野は言葉尻を濁した。連鎖的に、出会いのシーンからが古いアルバムをばらばらとめくるように呼び覚まされてくる。
(名前、マキノショウゾウっていうんだ? もしかしてお父さんが映画好きとか?)
 高校の入学式で名前を呼ばれ立ち上がると、隣の美里にそう話しかけられた。まさかいきなりそんな話題を振ってくるやつがいるとは思わなかったせいでうろたえ、「あ、ああ、親父もだけど俺も好きで、あ、でも、字はマキノ省三とは違うんだ」などと口走り赤面したのが昨日のことのようだ。
 牧野は時代遅れの映画青年だった。幼いころ、父親が酔うたび口にする「カツドウはいいぞ、マー坊、俺ァカツドウ屋になりたかったなァ」という繰り言を母と姉は嫌っていたが、牧野は何度でもそのとおりだと頷いた。カツドウ、という言葉は、牧野にとって「夢」や「希望」などのきらきらしい言葉とほとんど同義だった。
 牧野が自分ひとりで映画館に行けるような年になったころは、既にいわゆる「映画がだめになりかかっている」時代だった。何度か観に行ってはみたもののあまり興味がもてず、結局家で父親のコレクションをこっそりと視聴しては胸をときめかせ、何故自分はもっと早く生まれてこなかったのだろう、是非銀幕でこれを見たかった、とためいきをつく、そんな子供だった。おかげで同年代の子供とは話が合わず、ひとりでひっそりと古本屋を巡ったり、リバイバル上映を観に出かけていた。
 美里と出会ってからは、それらがすべて二人になった。たまには一緒に映画を見に行こう、から、今週はどこへ行こうか、になり、やがて今日はどっちの家に行こう、になるまでは、たしか季節ひとつぶんの時間しかかからなかった。それほど気が合っていたのだ。美里はクズ山のような新作映画のなかから面白い映画を見つけてくるのが魔法でも使っているかのように上手かったし、映画を見終わった後に牧野が語る独特の解釈は美里を魅了した。
 初めてキスをしたのは、汗ばんだ肌の感触と共に記憶されていることを思うと、おそらく二度目の夏のことだろう。いや、もしかしたらこのくらいの季節のことだったかもしれない。キスといえば、美里はよく林檎の飴をなめていた。唇を重ねた回数の分だけ、味は色濃く牧野の舌にも残っている。
 心の奥底に眠らせておいた記憶が甦るほどに、牧野の唇は重くなった。
「にしても、いいタイミングで来たな」
「店の場所わからないだろうから迎えに行ってくれ、って大野くんに頼まれたから。マッキー変わったね」
「みっちゃんが変わらなすぎなんだよ。服装も昔のままだし」
「いけない?」
「いけないってことはないけどさ……」
「似合うものを着てるだけだよ」
「指輪も懐かしいのしてるし」
「これも似合うから」
 二人の好きだった映画のワンシーンを真似て、美里が指輪にキスをしてみせる。何も我侭を言わなかった美里が、唯一欲しいと言ったものだった。十七の夏、祭の夜にお面やかざぐるまを売る夜店で袖をひっぱられて、そんなもんが欲しいのか、とからかい半分驚き半分で買って渡した。
 似合うから、というだけでおもちゃの指輪を大事にしつづける訳がない。わかっていても、そう言われれば返す言葉がなかった。そうか、とぎこちなく笑うと、美里がふいに立ち止まる。
「……ねえ、マッキー、もしかしてまだ気にしてるの?」
 不意につきつけられた言葉の鋭さに縫いとめられ、牧野も足を止めた。違うよ、と一言告げれば済むことだというのに、何故か声が出ない。保身のための醜い嘘が大嫌いな昔の恋人を前にして、牧野の時間も巻き戻ってしまったかのようだった。愚鈍で誠実な、嘘をつけない高校生の頃の自分になって、牧野は口を閉ざす。
「気にしてるんだね。しょうがないなあ、マッキーってば」
 沈黙を肯定と受け取って、美里が笑った。怨みを一切抱かない、その晴れやかな表情に、却って牧野は追い詰められる。
「……ごめんな。俺、最低だ」
 良くある話といえば良くある話だった。牧野と美里の関係を知った美里の父が、交際を止めろ、と牧野を脅し、美里を部屋に閉じ込めた。どうにか忍び込んだ部屋の隅で、ロミオとジュリエットみたい、と、泣きはらして赤い目で笑った美里の美しさを今でも覚えている。
 美里を愛していたのは嘘ではない。ただ、牧野は怖かった。先のない恋に溺れ続けることが許されるのは、映画の中だけだ、と気づいてしまったのだ。
 美里に「駆け落ちをしよう」と夜の駅で待っているように伝え、それと同じ時刻を美里の家へ電話した。牧野がしたことは書いてしまえばその一行に尽きる。
 結果、父親に捕まった美里は卒業式までずっと家に軟禁され、牧野は進学と同時に東京へ逃げた。
「ごめんな、みっちゃん、ごめんな」
「もういいよ。もう全部昔のことなんだから」
 膝をついた牧野の頭を、美里はぐずる子供をなだめる母のような手つきで撫でる。おもちゃの指輪をつけた左手が悲しいほどに優しく、牧野は年甲斐もなく大声で泣いた。
「俺、俺、……」
「いいよ。マッキー、相変わらず不器用だね」
 人通りのない往来で、それでも美里は何かから隠れるように日傘を傾けた。牧野の顔に、さっと即席の影が落ちる。
 唇は昔と同じ、甘い林檎の味がした。
「でもね、どんなに不器用でも、もう二度と好きな人を不幸にしたらいけないよ。約束して」
 牧野の薬指で鈍く光る指輪をそっと撫で、美里は微笑んだ。不倫をしていることなんてお見通しだよ、と言いたげなその表情には一種神々しいものさえ感じられる。
 声を出すことができず、ただうなずいた。美里によく似た愛人を作ったのは、ただの罪滅ぼしだったのだと悟った。
 甘やかし、可愛がり、我侭を笑顔できいてやる――美里にしてやれなかったことを、彼女に全部してやることで、自分をごまかしていたのだ。
 暇つぶしが出来ないから来たというのも、向かい合うことが怖くてついた嘘だ。俺は美里に会いに来たのだ、と牧野は思った。
 最後まで見ずに席を立ってしまった活動写真の、ラストを見届けにきたのだ、と。
「許して欲しいなら、許してあげるよ。それでいいじゃない」
 十八年越しのラストシーンに相応しいせりふを、かつて心から愛した人は言った。自分が席を立ってから、美里もまたずっと動けずにいたのかもしれない。そう思わせる笑顔だった。
「ほら、もう行こう。遅れるよ」
 差し出された手をとって、牧野は立ち上がった。
 今度からは、同窓会の葉書にためらいなく出席に丸をつけられるだろう。


「よう、牧野。やっと同窓会来たな。美里が相変わらずで驚いたろ?」
 幹事役の元委員長は、髪が少し薄くなって眼鏡をかけた以外、何も変わらないひょうきんな笑顔とせりふで牧野と美里を迎えた。
「いいじゃない、似合ってるんだから」
「まあなー。美里はホント年取んねぇよなー……よし、牧野正造、美里浩太郎、出席、っと。これで全員揃ったな。じゃあ、改めて乾杯しようか!」


Fin


2008.7.30.wed.u(20100801sun.加筆修正)
2008.7.24.thu.w

 

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