箸、私

 八年間連絡もなしに家を出ていた兄が、小さな箱に入って帰ってきた。
「どこ行ってたのよ、お兄ちゃん」
「やあ、すまんな妹よ」
 朱塗りの箸箱をカタカタと鳴らして、兄は笑った。
 なにをどうしたらそんな事態に陥るのかはさっぱりわからないが、兄は箸になっていた。


 兄が帰ってきた日、四人(正確には三人と一膳)で家族会議を開いた結果、兄は居間の机に置いておかれることになった。部屋は兄が出て行ったときのままにしてあったが、箸の身では椅子に座ることもできないし、寝るにも布団は広すぎる。沢山集めた本の類も自力では読めない。それよりは家族の誰かがいる居間にいたほうがいいだろう、と父が結論を出し、私たちは同意した。両親はまだ戸惑っているのか、気軽には話せないようだ。消えた子供が生きていたという喜びと、長男が人間ではなくなっていたという異常な事態をいっぺんに処理できるほど、彼らの脳味噌はやわらかくないのだろう。兄もそれはわかっているのか、ぎこちなく打ち解けようとする両親との会話を大事にしているようだ。それでもやはり、私と喋ることのほうが断然多い。
「奈緒は箸になんかなるなよー」
「ならないわよ、普通」
 帰ってきてからずっと、兄は箸箱の中で過ごしている。さすがに兄で飯を食うのは気色悪いので(「俺は構わんけどなあ、箸だし」と本人は言っていたが)私も両親も兄を使ったりはしない。けれどあまりにも美しいので、これが兄でさえなければ自分用にしてしまうのに、とこっそりため息をつくこともしばしばだ。兄はつるりとした紅い箸で、自称輪島塗だが嘘に違いない。上のほうには金色で簡略化された鳥が二羽上品に飛んでいて、滑り止めなんて無粋なものはついていない。私と兄は近年の安い箸についているざらざらとした滑り止めを「実用的でなく、気持ちが悪く、食欲を減退させ、何よりも見た目が美しくない」とひどく嫌悪していたので、もしもついていたら私は兄の帰宅を認めなかったかもしれない。真っ二つに折るか、少なくとも庭に放っておくくらいのことはしたはずだ。どんな経緯があったにせよ、一線をきちんと引き続けてくれた兄の心意気が嬉しかった。箸になっても兄は兄だ、と確かめられた気がした。
「お月見するけど、お兄ちゃんも縁側出る?」
 出る出る、と楽しげに答えた兄を箸箱ごと持ち、小さな酒壜と自分で吹いて作った琉球硝子の杯を手に、私たちは表に出た。酒をのむには程よいつめたさの空気と、肴にするのにもってこいの見事な月に、ああ幸せだなあとしみじみする。いい夜、いい月、いい酒。満ちたりているというのはこういうことを言うのだろう。
「お兄ちゃん、どうして箸になったの?」
 二杯ほど酒を入れてから、訊いた。この程度では酔わないが、まったくのしらふで聞ける話ではないだろうと思ったのだ。
「んー。それなあ、いろんな人に訊かれたわ」
「あたりまえよ」
「いろんな人に訊かれたけど、ほんとのことは奈緒だけに言うって決めてた」
 なんだかしょんぼりした声だった。兄が人間のままなら酒を注いでやるところだが、箸なので何もしてあげられることを思いつかない。仕方なく、一人でつるつると酒をのんだ。目のさめるような、それでいて優しくしみる、いい日本酒である。いいなあ奈緒、と兄が力なく笑った。酒豪の兄にとって、いい酒を目の前で人がのんでいるのに自分は味わえない、という状況はくやしいだろう。しかし箸になることを決めたのは兄なのだ。酒を二度とのめなくてもいい、という覚悟も、きっとそのとき決めたに違いない。私はいいでしょう、人間の特権よ、と笑い返し、同じペースでつるつると手酌をした。
「家を出て三年目に、すごく好きな人ができたんだ。年上で結婚してる人だったからどうこうなろうなんて思わなかったし、家庭を持ってるその幸せそうなところを含めて好きだったから、壊してやろうなんて考えもしなかった。旦那さんにも年の離れた弟みたいな感じで可愛がってもらったし、子供にはお兄ちゃんお兄ちゃんってなつかれて、好きだ、とか別にして、一緒にいると楽しかった」
 身内の恋愛話というのは、どう聞けばいいものかわからない。うまい相槌を思いつかなかったので、ただひたすら、しんしんと酒をのんだ。兄はそんな私の性質をよくわかっているので、気にしないで話を続けてくれる。
「楽しいんだけどさ、俺、やっぱ本質的には『他所の人』でしかなくてさ。俺も内側に入りたかったんだ。で、箸なら家庭の真ん中に入り込めるだろ? だから、箸になった」
 結論が唐突過ぎて、思わず杯が止まった。だから、でまとめるには、あまりにも経過と結果が離れすぎている。しかし兄は本気でしんみりとしている様子なので、それ以上訊くことは憚られた。代わりに話の続きをうながす。
「で、箸になって、その一家とはどうなったの」
「それがさあ、俺がようやく箸になって帰ってきたら引越しちゃってて。転居先訊けるような共通の知り合いもいなかったし、俺も箸になったあとのこと考えて元のアパート解約してたから、お互い転居通知出せずにそれっきり。笑っちゃうよな」
 いかにも兄らしい間抜けな結末だ、と思ったが、笑っちゃうよな、という声がまったく笑っていなかったので、口に出すのは控えた。我ながらいい妹である。
「そのあとは適当に、拾われたり使われたりしてた。んで、ここの近くまで行く人と知り合ったから、じゃあもう俺も家帰んべと思って送ってもらった」
「ふーん。そういうことがなかったら帰ってこないつもりだった?」
「さあ。どうだろうな」
 遠いところをみるような声だった。もしかして、兄はどこかでぽっきりと折られてしまいたかったのかもしれない。野垂れ死にならぬ野垂れ折れ。
「もう人間には戻れないの?」
「うん。二度と戻れない」
「後悔は?」
「してない。父さんと母さんにはちょっと悪いと思ってる、けど」
 長男が箸なんてなあ、なんか、なんかなあ。うまく言えなかったのか、それとも言いたくなかったのか、兄は言葉を濁してカタカタと揺れた。
「箸ってどんな感じ?」
「人間とそんなに変わりはないけど、五感のうち触覚と味覚がないし、転がる以外に移動手段ないから自分で動ける範囲も狭いな。あと、箸だから寿命とかない。それだけ」
 それだけ、と兄が軽くまとめたものは、私には途方もない代償に思えた。
「そういう話は箸になるまえにちゃんと聞いたの?」
「聞いたよ。止めはしないけどよく考えろって言われて、二週間と三日よくよく考えた」
でもなりたかったのね、と訊くと、兄はカタンと揺れた。私は杯の底に残っていた酒を兄にかける。突然のことに驚いたのか、なんだよ、と兄がひっくりかえった声を出した。
「酒だよ」
「それはわかるけど……」
「酒だよ、お兄ちゃん」
 重ねて言うと、言いたいことは伝わったらしく兄は黙り込んだ。
 兄はもう二度と何かを味わうことも、誰かを抱きしめることもできない。泣きたくても涙を流すメカニズムは備わっていない。私たち家族に使われない兄は、箸としての生き方を全うすることもできないし、折れて死ぬこともない。ただ静かに古び、朽ちて、おそらく私たちが死んでからもずっと箸箱の中に横たわり続けるのだろう。
 これから得ることの出来る幸福のほとんどを捨ててでも、兄が得たかったもののことを思った。好きになったという年上のひと、その旦那さんと子供、彼らの作る平凡だけれどあたたかな家庭。そのなかで、兄は本当は一体何になりたかったのだろう。
「おい、酒こぼしてるぞ」
 しょうがない妹だな、と、私の濡れる膝を見て兄は笑った。私も鼻声で少し笑う。
すっかり長くなった夜はまだ明ける気配もなく、月がくっきりと黄色く浮かんでいる。けれど兄がこれから過ごす数千回の夜の果てしなさのなかでは、こんなものはたったひとつまみの時間でしかないのだと思うと、また泣けた。


Fin


20100704sun.re:u(加筆修正、改題)
20090513wed.u
20090513wed.w

 

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