三森さんが笑うようになった理由、または松本氏の死について

 三森さんが笑うようになった。
 三森さんは近所のあまり流行らない雑貨屋で店番として働いている、不快ではない程度に無愛想な女性だ。することがない日は掘り出し物を求めて店を訪れるので顔なじみになるのは早かったが、名前を覚えられたあとも(マツギ、と妙にカタカナめいた発音をされる)、言葉遣いが店員のものからプライヴェートに近いものになってからも、表情は常にそっけないままだった。そんな彼女が、近頃ひかえめながらも微笑みを見せるようになったのだ。平凡な日常においては、なかなか衝撃的な事件である。
「いいことでもあったんですか?」
 けれどそう訊くと困ったように首をかしげるので、心境の変化について触れるのは、それ以来やめた。


 真相を教えてもらったのは、三森さんが笑うようになってから半月ほどしたころである。
「死んだんだ」
 リボンやフィルム(「ご自宅用」ではない、誰かに贈られるものを包むためのものたち)を整理しながら、唐突に言った。何の話かわからずに、え、とあほのように言うと、三森さんはもう一度ゆっくり「死んだんだ」と繰り返してくれた。いや、それは聞きとれていますよ。
「……どなたが?」
「松本という男だよ。なんというか、説明は難しいが、無理やりわかりやすくまとめれば私の旧い友人だ」
 三森さんはその硬い黒髪に似た、ぱきぱきした声でしゃべる。学生の頃に恋をした教師のことを、少しだけ思い出した(客だというのに、三森さんに敬語を使ってしまう理由はあの人の影がちらつくせいだろうか)。自分はぱきぱきした人間に惹かれやすくできているのかもしれない。
「本当は友人なんてものじゃないんだけれど、まあ、そういうことにしておく」
「……ええと、仲悪かったんですか」
「いいや? 寧ろ波長の合うやつだった」
 からかわれているのだろうか、とも疑ったが、三森さんは至極まじめな顔をしていた。
「友人じゃないのは確かだが、それ以外の言葉はもっと不適切なんだから仕方ないんだ」
 そう言う三森さんはどこか途方にくれているふしすらあったので、それ以上追及することはやめた。三森さんはきっと言葉を大事にする人なのだろう。
 きみは言葉を雑に扱いすぎですよ、と、また昔の恋人であった教師が頭の中でしゃべった。姿はもうずいぶんとおぼろになったのに、声だけは今でも鮮明に覚えている(と自分では思っているけれど、三森さんの声と混ざってもう本物とは全然違うふうになっているかもしれないが、確かめるすべはない)。
「松本と会わなくなったころから、笑うのが苦手になって」
「はあ」
「で、この前松本が死んで、その骨をもらって、それを眺めながらああ松本と並んで歩くことは二度とないのかなんてことを考えていたら、不覚にも笑ってしまったんだ」
「……は、あ」
 三森さんの思考は難解すぎて、どうにもついていきがたい。それがありありと顔に出ていたらしく、「わからないだろう」と苦笑された。すみませんわかりません。
「私にもよくわからないんだ、自分が何で笑ったのか」
「……そう、なんですか」
「なんだろうな。なんというか、もうあんなふうに松本と過ごせる人間は一人もいないって事実が、なんだか嬉しい気がした、みたいだ」
 ひどくあやふやなセリフだったが、そのぶんだけ真実らしい厚みがあった。
「好きだったんですか、松本さんのこと」
「…………」
 三森さんはまた困ったように首をかしげた。そういう簡単な言葉で片付く感情ではない、と、わずかに下がった眉尻が語っている。すみません、と質問の撤回をするつもりで謝ると、いいんだと手をヒラヒラさせた。
「……嫌いではなかったよ。少なくとも、松本の手は好きだったし」
 自分の手の甲をさすりながら、うん、と三森さんは何かを確かめるように頷いてちいさく笑った。
「松本の手が、好きだった」
 ああきっと三森さんは自分で自覚している以上に松本さんのことが好きだったのだろうな、と思う程度には、三森さんらしからぬ明確な方向性を含んだ言葉づかいだった。


Fin


20090827thu.u
20090617wed.w

 

back / index