メルト

 洋一が死んだ。
 セックスをした後、水がのみたいと言った私のために立ち上がってキッチンへ行こうとする途中に、ふと思いついたように洋一はそういや俺バク転できるようになったんだよと言った。汗まみれで薄い万年床に横たわりながら、私はそんなの別にいいからお水、とだけ、だるい顎を動かして言った。それがまずかったらしい。洋一はできないと思ってるんだろ、とむっとした顔をした。できないと思ってるからそんなどうでもいい態度なんだろ。バク転どころかバク宙もできるからな俺。
 逆上がりができるようになった子供みたいにしつこく言い募るようすがあまりにもおかしかったので、じゃあ見てあげるからやって、と私が言うと、洋一はやはり子供のごとき単純さで途端に満面の笑みを取り戻し、おう、と答えた。軽く体を揺らして何かのタイミングをはかり、いち、にの、さん、で軽快かつ力強く踏み切り、そして綺麗に頭から床に落ちて、首の骨を折って死んだ。たぶん、あれは即死だろう。証拠に顔は笑っていた。痛そうなそぶりなどちっともなく、おう、と答えた時そのままの、子供みたいな表情を浮かべていた。私の一番好きな笑顔。
 洋一がいつまでも立ち上がらないので、私は仕方なく布団から起きて、よういち、と呼びながらほほをはたいてみた。もちろん無駄だというのは一目でわかっていた。死を受け入れられなかったのではない。暑くて暑くて、思考力と判断能力が低下していたがゆえの行動である。洋一の首は私が叩くのに合わせて、右に左にと重たく揺れた。
 こういうときはどこに電話するべきだろうか、と、風のない夜空を見上げながら私は考える。死んでいるので、救急車は無駄だ。事件ではないので警察も違うだろう。ならば葬儀屋か何かだろうが、もうこんな時間じゃ営業時間外に決まっている。明日改めて電話をして、洋一の葬式を出そう。そのためにも、今日はもう寝よう。すべてを決めてしまうと、ひどくさっぱりした。
 しかし一人で寝るのは寂しい。おまけに布団は汗を吸ってぐっしょりと濡れている(私も洋一もひどく汗をかく)。しばらく考えて、押し入れの上段に登ってみた。ほこりくさくどこか段ボールのようなにおいがするものの、汗まみれの布団に寝る不快感と比べれば雲泥の差だ。苦労して洋一をひっぱりあげて抱きしめながら寝転ぶと、自分でもおどろくほどに狭苦しい闇が汗ばんだ肌によくなじんだ。
 洋一の、私よりも二度近く高かった体温(私の平熱は三十五度をぎりぎり保ったり保てなかったりで、洋一は三十六度後半だった)がまだ残っているかどうか確かめてみようとして強く抱きついたけれど、熱帯夜にほてった体にはよくわからなかった。洋一、と耳を食みながらささやいてみる。二人きりの押し入れの中で、声はぼやぼやとこころもとなく響く。洋一、暑いね。洋一は死んじゃったから暑くないだろうけど、私は暑いよ。生きてるから。こうして押入れで寝ると、私たち、ドラえもんみたいだね。ドラえもんは死なないから、私がドラえもんで洋一がのび太くんなのかな。そんなふうにやくたいもないことばかりを、ぼやぼやとささやいた。ぼやぼやささやいているうちに、眠ってしまった。


 次に目を覚ましたとき、私は起き上がる気力をなくしていた。水分と共に流れ出してしまったのだろう。今日も暑くて、空気はぬるいゼリーのように絶え間なく私たちを包んでいる。喉が渇いて仕方なかったが、なにせ起きたくないので、だらだらと洋一を抱きしめていた。
 いつもなら洋一は私がうまく抱きしめられるようにさりげなく体勢を変えてくれるのだけれど、もう死んでしまったので、ただしんと横たわっているだけだ。それがなんだかひどいことのように思えて、私は泣いた。涙にできるほどの水分は余っていなかったので、喉だけでふうふうと泣いた。どうしてバク転なんてしようとしたのだろう。私はバク転なんてちっとも見たくなかったのに。もう洋一は私のために体の位置をずらしたり、腕を背中にまわしたりしてくれない。へんな意地を張ったりするからだ。私はバク転なんて見たくなかったのに。バク転のできない洋一でよかったのに。そんな洋一をすごくすごく愛していたのに、そんなこともわからなかったのだろうか。洋一のばか。ひとしきり泣き終わると疲れたので、ふ、ふう、とすこし泣き声をひきずりながら、ぐずぐず眠った。
 部屋の外では私の代わりに蝉が延々と泣いている。


 しめきった押し入れの中の空気ごと、洋一が腐り始めた。
 すさまじい臭いが直接脳に刺さるかのごとき錯覚に襲われるが、私は洋一を抱きしめたまま離さない。ふやけた皮膚がわずかに出続ける私の汗を接着剤代わりに、腕や頬やからめた脚にはりついている。
 暑いので動く気には到底なれるはずもない。瞼を半分だけ閉じて、とろとろと夢と現のはざまに浮くと洋一の気配がした。死んで腐っている洋一ではなく、生きていた頃の洋一のものである。味覚がするどくて、私の作ったご飯をいつもああしろこうしろと文句ばかり言っていた洋一。でも結局おかわりをして、作った分を残さず食べてくれた洋一。スーパーでは魚のコーナーとパンの棚を見るのが好きだった洋一。ハリウッド映画が嫌いで、でもその理由は銃撃戦が多いから大きくてするどい音ばかりで怖い、なんて他愛もないものだった洋一。お酒が大好きで、私の飲み残しまですいすいたのしそうに飲んでしまう洋一。虫は平気だけど蝶々が怖くて、私がアナスイの紙袋を持っていただけで顔をひきつらせていた洋一。そんな頃の洋一の気配だった。


 洋一の体は溶けていく。
 耐え難かった悪臭もぬらぬらべたべたと私の体にはりつく感触も、慣れたのか(むしろ麻痺したというべきだろう)もう気にならない。私は相も変わらず、洋一を抱きしめたままゆるい水ようかんみたいな闇の中に横たわっている。あまりにも長い間こうしていたせいか、喉も渇かなくなったし、暑さもどうということもなくなった。昼間なのか夜中なのかもわからないまま、ぼんやりと時間を過ごす。
 不用意に寝返りを打ったり動いたりすると洋一の一部がモロリともげてしまうので(なにせ腐っているのだ)、私はなるべく動かずにじっとしている。死体みたいに、ただひたすら、横たわっている。
 最近ではもう蝉の声もきこえない。


 ふと気がつくと、洋一の背中と私の腕はくっついていた。どろどろに溶けだした皮膚が私の腕をくっつけているのだと思っていたが、そうではなく、私の腕もまた溶けているのだった。
 胸も腹も腰も脚も、私と洋一の境目はあいまいになっている。もうよく思い出せないくらい前から抱きしめていたのだから当たり前かもしれない。
 ねえ、よういち。呼んだつもりだったけれど、舌は動かなかった。心の中だけで続ける。ねえ洋一、私たちはほんとうにひとつになったね。このまま眠ったらきっと二度と目覚めないけれど、でも、それがなんだっていうんだろう。そんなのはもうどうでもいいよね。私たちはひとりになって、もう誰も私たちの間には入れないんだから。いつかのように話しかけながら、幸せな気持ちで眠った。今度の眠りは私たちの体のようにずぶずぶとやわらかく、果てがない。
 もう瞼の肉が溶けていたから、目をつむる必要もなかった。


Fin


20100704mon.u
20100220sat.w

 

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