ベンディングマシーンに愛を告ぐ

 あたしの好きな人である野上先輩には「彼女」がいるのだけれど、それでもあたしは野上先輩のことを諦められない。
 なぜならば、野上先輩の「彼女」とは、紺色の自販機だからだ。


 そもそも、社会にも研究にもさっぱり興味のないあたしが、バスケ部やらサッカー部のマネージャーやらという高校生活の花形的部活をスルーして社会科研究同好会に入部(同好会だから入会、だろうか)したのは、ひとえに新歓期間にスペースでひとり座っていた野上先輩に一目惚れをキメたからなんである。野上先輩を見た瞬間、あたしは半ば無意識のうちにふらふらと寄っていって「あんまりわからないんですけど、入ってもいいですか」と言っていた。へんなスイッチが入っていたとしか思えない。
 三月に先輩方が卒業してぼく一人になっちゃったから、部活から同好会に格下げされたんですよねえ。本当は同好会だって二人いないといけない決まりだから、ちょっとクラスの人に名前だけ貸してもらって、だましだまし続けてるんです。細川さんが入ってくれれば、胸を張って社会科研究同好会を名乗れます。うれしいなあ。そんなことを穏やかな声でぽつんぽつんと雨のように話す野上先輩に、あたしはすっかりやられてしまった。
 野上先輩が社会科研究同好会で継続して調べているテーマは「地域社会における店舗および設備の移り変わりとその影響」だそうで、なにがなんやらわかりませんという顔をしていたら「どこにコンビニが出来たとかどこの店が潰れたとか、どこに自動販売機が設置されたかとか、あとその品揃えがどう変わってるかとか、そういうのを調べてるんです」と噛み砕いてわかりやすく教えてくれた。週に二回フィールドワークに出かけ、四つに分けた地区を一ヶ月で各二回ずつ調べた結果を、月末にまとめてファイリングする、というのが野上先輩のやっている活動の全てだそうだ。あたしはやりたいこともないので、野上先輩がよければ当分一緒にフィールドワークについていきたいです、と答えた。ぼくは構いませんよ、細川さんがひとりで調べたいテーマができたら遠慮なく言ってくださいね、と優しげに笑った顔が、またすばらしくよかったのだ、これが。


 入部して半年後、一目惚れの域を出て充分な本惚れに達したと判断したあたしは、野上先輩に告白した。電話でも手紙でも、ましてやメールなんて軟弱なものでもなく、放課後に部室(同好会なのでちゃんとした部室はなく、とりあえず今はクラス数が減って存在しなくなった三年J組の教室をあてられている)で、まっすぐに「野上先輩が好きです」と言った。
 フィールドワークにくっついていって、写真を撮ったり言われるままになにやら数字をメモしたりするのはそれなりに楽しかったし、ふたりだけで文化祭の展示を準備したり普段の活動をしたりする中で結構仲良くもなった(と、少なくともあたしは思っていたのだ)。半年だけでも、野上先輩について色々な事がわかった。いつもお弁当を食べていること、そのお弁当は先輩と先輩のお母さんが週交代で作っていること、たまに忘れると購買でパンを買って、そのパンは大抵たまごサンドであること、毎週水曜日は部室に来ても一時間程度で何かを書いて帰宅すること、外見に似合わず意外と体育が得意なこと、数学は少し苦手だけれどそれでも赤点スレスレのあたしからすれば奇跡みたいな点数を取っていること、好きなものは機械全般(いじるのではなく、フォルムを眺めるのが好きらしい)、苦手なものはカエル(ぬめっているものがダメらしい)、などなど。些細な情報ばかりだけれど、知るたびに好きになった。
 そんなふうに半年間あたしが積み重ねた好きを、野上先輩は暫く黙ってから、「ごめんなさい」と突き崩した。
「あの、……ぼくはあまり、こういうことが得手ではないので、うまく言えるかわからないのですが」
「はい」
「フィールドワークの三地区で最後に寄る住宅街の、あの、空き地の近くにある紺色の自動販売機わかりますか」
「はあ、……はい」
「ええと、あの、ぼくは、彼女が好きなんです」
「はあ、……はあ?」
 片思いの相手に「はあ?」と語尾を跳ね上げてしまう失態も許されよう。なんだ、それは。そんなむちゃくちゃな嘘をついてまであたしのこと断りたいのか、と思ったけれど、野上先輩はいつもよりもそわそわして、しきりに首の後ろに手を当てながら「あの、内緒ですよ」なんて言っていて、つまりは非常に照れていた。どう見ても嘘をついている人ではなく、恋をしている人の表情だった。本気らしい。
「……ええと、あの、あれ、自販機ですよね」
「ええ、自動販売機ですね」
「あの、中に、人とかは」
「入ってないです」
 まだよくわからない。自販機が、彼女。なんだそれは。なんなんだそれは。どういうことだ。間を持たせるように、大して知りたくもないくせに「野上先輩は、その、どういう……いきさつで、好きになったんですか」と訊いてみた。彼女のことを、とは、なんとなく言えなかった。野上先輩にとってはかけがえのない女の子なのだとしても、あたしにはどうしても、どこにでもある自販機と同じにしか見えないからだ。それでも野上先輩は「なかなか照れることを訊きますね」と静かに笑った。
「恥ずかしながら、その、一目惚れですね」
「ひとめぼれ」
 思わず鸚鵡返しをすると、「まんがみたい、でしょうか」と照れたように首をかしげた。あの、そんなことないと思います、けど、ええと、でも、……はあ、はい。うまく相槌を打てないあたしに構わず、言葉を続ける。
「彼女、とても美人でしょう。その、たとえばでかでかとロゴが印刷されているわけでもなく、チャラチャラとカラフルな模様がついているわけでもなく、澄んだ紺一色できりっとしていて、こう、横顔のきれいな子だなあ、と」
 自販機の横顔というのはどこからどこまでなのだろうか。
「それで思わず、そのときは小銭しかなかったから百二十円なんですけど、お金を入れて、それでその投入口が古風な縦型っていうのもまたぐっときたんです。最近の、ざらっと小銭を入れられるタイプの、ろうとみたいなのあるでしょう。あれはちょっと、なんていうか、慎みがない感じがして。バリアフリーなんでしょうけど、どうも、はしたないというか、お金に対してさあ来いって両手広げてるみたいで、なんか、金に汚いみたいな、そういう感じがしてしまうんですよね。それに比べて彼女の投入口はなんて謙虚なんだろうって。それに飲みものの温度表示が『あたたかい』『つめたい』っていうのも、またいいです。『HOT』『COLD』ってちょっと気取ってる感じで、嫌いじゃないですけど、やっぱり素朴な『あたたかい』がぼくは好きなんです。あ、でも、『あたたか〜い』は嫌いです。あたたか〜い、って、間延びした口調が間抜けだから。『あたたかい』っていう、言いきってるのにひらがなでやわらかいところがまた彼女の紺色のボディにすごくよく合ってるなと。で、購入ボタンが濃い紫のプラスチックで、赤いランプがほのかに色っぽくぼやけるのもすごくかわいいなと思ったし、それから品揃えも、ピーチネクターとかココアがあるわりには紅茶がしっかりカロリーオフだったりしてね、ああこの感じなんだかとても女の子らしいなあ、かわいらしいなあってって思って、気づいたら一時間くらいずーっと彼女を見つめてたんです」
 一時間も、自販機を。はあ。
 それから野上先輩はあたしに「彼女」と初めて出会ったときのこと、二回目に「彼女」に会いに行ったときに道を覚えていなくてやたら迷って二時間くらい余計に歩きつつも無事再会したこと、そしてそのとき買ったカロリーオフのストレートティーがやけに甘くておいしかったこと、自分がすっかり「彼女」を好きになってしまったこと、などなどを、ひかえめな声で話してくれた。あたしにはやっぱり、「自販機が恋人」の意味がわからなくて、間抜けにはあはあと頷いているばかりだったので(さぞかし話し甲斐のない相手だったことだろう)、あたしがその日理解したことはふたつだけだった。
 あたしは野上先輩にふられてしまったこと、そして、野上先輩はいまのところあの紺色の(野上先輩に言わせれば「きりっとして」いて、「横顔のきれい」な)自販機に、あたしが野上先輩のことを好きなのと同じくらいかそれ以上に惚れこんでいるのだということ、だ。


 野上先輩に「彼女」の話を聞いてから、毎週水曜日に一体何をしているのかがわかった。水曜日は「彼女」に会いに行く日なので、いつも一時間くらい部室でラブレターを書いているのである(今までは何かプリントとか、宿題とかをやっているのかと思っていた)。勿論、「彼女」は文字なんて読めないし、普通に手紙を渡しても受け取るすべはない。だから野上先輩は、千円札の端っこにシャープペンシルで小さく手紙を書く。天気のいい日が続いて嬉しいとか、小テストで良い点をとれたとか、そういう他愛もない近況報告を書いて、最後にそれまでよりすこし大きな字で「愛しています。悠一郎」と書き添える。その千円札で飲みものを買って、「彼女」のそばに折りたたみの椅子を置き、飲みもの一本分の時間「彼女」に話しかける。
 野上先輩がラブレターを書くときに使うシャープペンシルが「彼女」と同じ紺色だということも、芯の硬さはいつものHBではなくFというちょっと珍しいものだということも、それどころか字を書きあぐねている時にトントンとシャープペンシルをはずませながら口笛を吹くように唇をすぼめているということさえもあたしは知っているけれど、「彼女」は知らない。
 社会科研究同好会に入ってまだ半年のあたしのほうが、野上先輩と一年以上過ごしている「彼女」よりもずっとずっと野上先輩について知っている。あたりまえだ。「彼女」は野上先輩のことなんて認識してないのだから。なのに野上先輩は、あたしより「彼女」が好きなのである。あんまりだ。不公平だ。あーあ。あたしの人生でこの先これ以上理不尽な失恋なんてきっとない。
 それでも、あたしは野上先輩のことを諦めきれない。人間の女の子なら、まだ、わかった。ああ仕方ないことなのだ、と思えた。でも、相手は自販機である。お金を入れてボタンを押したら飲みものが出てくる機械だ。おおざっぱに言ってしまえば、ただの鉄の塊だ。そんなものに恋をしていると言われてはいそうですかと諦められるほど、軽い気持ちで野上先輩のことを好きになったわけでは、ないのだ。
「野上先輩、今日はあたしもついてっていいですか」
 恋人と会うところに「ついてっていいですか」なんてとんでもなく空気の読めない質問だけれど、野上先輩は「いいですよ」とにっこり笑ってくれた。「彼女」のいる住宅街のはずれまで、大体四十分ほどの道のりを歩いてゆく。親しげにお喋りをしながら並んで歩くあたしと野上先輩は、きっと下校デート中のカップルに見えたと思う。このまま「彼女」のところではなく、どこかに遊びに行けたらいいのに、と願ったけれど、勿論叶わなかった。
 何故こんなところに、と不思議に思うような、住宅街のはずれに「彼女」はぽつねんと立っている。野上先輩が一目惚れしたという「きりっとした」横顔は、あたしにはやっぱりただの自販機の側面にしか見えない。「彼女」の五メートルくらい手前で、学ランの襟を正し、髪の毛をさっさっと撫でて整えてから、野上先輩は「彼女」の前に立った。
「こんにちは。お変わりありませんか?」
 野上先輩がていねいに言葉をつづったラブレターを、「彼女」はかすかにモーターを唸らせながら吸いこんでいく。一斉にランプの点る購入ボタンは、一瞬照れているように見えた――というのは大嘘で、あたしにとってはやっぱり何の変哲もない購入ボタンである。それでも野上先輩が愛しそうにボタンに触れるのを見て、あたしはひどくうらやましかった。あたしもあれくらい優しく、愛しそうに、野上先輩に触れてほしかった。
「ひとりでここにいるのは、寂しくはありませんか。ぼくがいつもあなたの傍にいられたら良いのですけど。……ええ、まあ、ぼくが寂しいだけなんですが」
 恋している男の人がこんなにきれいなすりガラスのような声で話すなんて、あたしは知らなかった。あたしの知っている限りでは、男子も女子も関係なく、恋をするとみんなもっともっと肉っぽくて生っぽい喋り方をするようになった。
 野上先輩の、そのすりガラスの声で、あたしのことも呼んでほしいと思った。細川さん、ではなく、つかさちゃん、と呼ばれたかった。
 最初はただの一目惚れだったのに、野上先輩に「彼女」がいると知ってからもずるずる一緒にいるうちに、もっとずっと濃くてどろついた染みのように恋は根付いていた。
「……野上先輩」
 気づくと、あたしは社会科研究同好会に入会を決めたときと同じように、半ば無意識のうちに口を開いていた。
「野上先輩、自販機なんかのどこがいいんですか。自販機なんか、固いばっかりでなんもできないですよ。デートもできないですよ。キスだってセックスだってできないですよ」
 野上先輩はすこし驚いたように眉をあげてから、ややあって「そうですね」とだけ答えた。この続きを言っても嫌われるだけだとわかっていてももう自分の意志では止められなくて、あたしはどろついた恋を嘔吐する。
「あたしは、自販機にできないこと、全部できますよ。野上先輩にしてあげられますよ」
 野上先輩は、いつものように目を細めて、ふ、と笑った。限りなく優しくてやわらかくて、でもそれは「彼女」に向けるものとは種類が全然違った。
「……別に、細川さんはそういうことのためにぼくを好きになったんじゃないでしょう? ぼくも、そういうことのために彼女を好きになったんじゃないんですよ」
 一呼吸置いてから小さな声で、ごめんなさい、と野上先輩が言ったのを聞いた瞬間、あたしは自分の間違いを悟った。
 相手が人間の女の子なら、諦めなくていいのだ。あたしだって人間で、女の子だ。同じフィールドでの戦いだ。でも、あたしはどう頑張ったって、四角くて紺色できりっとした横顔の自販機にはなれない。手をつないで歩くことができても、野上先輩のクセを知っていても、目を見て喋ることができても、そんなことはこの恋において何の役にも立たない。
 くやしさが両目からぼたぼたと溢れて、あたしは子供みたいにみっともなく空を見上げながら泣いた。
 野上先輩は困ったように目を細めてあたしを見ながら、繊細な手つきで「彼女」をそっと撫でていて、それがまた、どうしようもなく悔しかった。


Fin


20110506fri.u
20110505thu.w

 

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