パピヨンの翅

「あたしねえ、思うんだけど、美、とか、麗、とか、子供の名前に使っちゃだめだよ。逃げ場がないから」
 麗美との思い出は彼女のこの呟きから始まっている。
 私と麗美は二年B組の教室におけるひとつとひとつの異物である。私の方はただ浮いているだけで、いじめられているわけではない。というよりも、いじめられるほど教室に馴染めなかったのだ。スクールカーストという言葉があるけれど、私はその最下層ではなく、外側にいる不可触の人間である。
 一方、麗美はきちんとカースト内にいた。たったひとりで三十六人の最下層を務めていた。彼女はきっとこれまでに通った殆どの教室でその位置についていたのだろう。すみずみまでみっちりと肉で満たされた寸詰まりの体、「眠たげ」というよりは「脂肪で重そうな」といったほうが正確であろう厚ぼったい一重瞼の細い目、低いくせに重力に逆らった造形の平たい鼻、大きな口とその中にガタガタと並ぶ不揃いの歯たち。子供の世界において、美しくないこと、異形であることは明らかな罪なのだから、彼女がその他多くの人々に誅されることは仕方のないことだ。こんなふうに放課後の教室掃除をひとりに押しつけられることも、「美しくないこと」の代償として受け入れなくてはならない。それが世界のルールであり、共通認識であり、前提だ。だから一党支配による恐怖政治ではなく、多数決による民主的で穏やかな政治によって、麗美は迫害される。
 私は員数外だから、その政治には関われない。彼女を庇おうが唾を吐きかけようが、それはただ私個人の行動でしかない。だから私がこうしてひとりで黙々と教室を磨きあげていく麗美の姿を眺めていることは、誰にとっても意味のないことだ。彼女がきゅうっと黒板消しを鳴らして一日分のチョークを剥ぎ落し、濃緑に戻していく後ろ姿をぼんやりと見ているだけで、手伝うどころか私は相槌すら打たないのに、彼女は気にせず話し続ける。
「綺麗でもないし美しくもないのに、名前書くたび麗美麗美って、毎回ほんと、嫌味言われてるみたい」
 彼女は十四歳らしくない甘くかすれた声でそう呟くと、にたあーっと唇を裂いて笑った。まるい顔の真ん中に、とどめのように散らされたそばかすのせいで、彼女は一時期あんぱんとあだ名されていたのだが、口からちらりと見えた舌の赤さに「中には餡ではなくていちごジャムが詰まっているのでは」と的外れなことを思った。
 少し考えてから彼女は怠惰な芋虫のような指でチョークをつまみ、拭いたばかりの黒板に「大木笑」と私のフルネームを書いた。先生たちよりもバランスの取れた楷書である。
「大木さんの名前、エミ、っていいわよねえ。笑うかどうかなんて自分の意思でどうにもできるじゃない?」
 そうかな、と言ったつもりだったけれど言葉が喉に絡んでうまく出てこなかった。そんな風に自分の名前を褒められたのは初めてだったし、学校では必要最低限しか口を開かなかったから舌がもつれたのだ。そんな私を見て「喋んないなら笑やいいのに。ブスじゃないけど美人でもないんだし」と、正真正銘の不細工はまたにたあっと笑ったのだった。


 その放課後を境に、私と麗美は共に過ごす時間が増えた。休日遊びに行くだの一緒に下校するだの友達のような振る舞いはしなかったけれど、弁当は一緒に定位置(中庭と屋上をつなぐ階段の踊り場は埃っぽく、座るとスカートが汚れるので、誰も来ない良い場所だった)で食べたし、彼女が掃除を終えるまで私は傍で待った。麗美の近くにいても、私は相変わらずカーストの外側を漂う浮遊物でしかなく、麗美もフィクションでよく見るような「あたしといると狙われるよ」という類いのことは言わなかった。そもそもストレスを解消するために生贄を選びだすことと、元から属している階級によって待遇に差が生じることとは、外側からは同じいじめという言葉でくくられるのだろうが、実際には全く性質が違うものなのだから当然といえば当然だ。
「大木さんはあたしのことブスとか言わないねえ。なんで?」
 自虐でも被害妄想的でもなく、ただ心底不思議そうに問う麗美に「ブスだと思うけど、好きなブスと嫌いなブスがいて、歌川さんは好きなブスだから、ブスでもあんまりブスには見えない」というようなことをつっかえながらもできるだけ誠実に答えた。麗美は私のへたくそな言葉選びに目を髪の毛ほどの幅に細めていたが、「大木さんのね、そういう取りつくろわないところ好きよ。あたしのこと可愛いとか言うのはよっぽど趣味がねじまがってるんじゃなかったら嘘だもん」と機嫌良く目をたわませた。
「大木さんはずっとそういう、常に浮いてるポジションなの?」
「……まあ、そんな感じ」
 私は浮いているだけで、除け者ではない。実験や体育で同じ班になっても女の子たちは嫌がらないし、私を無視して話し合いをするわけでも、一方的に仕事を押しつけられるわけでもない。でも校外学習の班を作る時には余るし、委員会の用事や課題の提出などの事務的な連絡以外で話しかけてくる人はいない。カーストの外にいるというのはそういうことだ。
「ちょっと珍しいよねえ。大抵はさ、一時的にそういうとこにいても、結局一番下かそのちょっと上に組みこまれるじゃない」
「……そういうもの?」
「幼稚園から十二年こういう場所を見上げてきたけど、大木さんみたいなのは初めて見た」
 麗美はそのぱんぱんに膨らんだ体にふさわしい食欲を持っていた。昼食の内容は一抱えの総菜パンであったり、花見や運動会で広げられるようなサイズのお弁当であったりしたが、同じ年頃の男子でも食べきれなさそうな量であるという点は揺らがなかった。それらを彼女は短い昼休みの間に悠々と消費し尽くす。
 コロッケパンの油分で唇をぬらぬらと光らせながら、麗美は笑う。彼女は笑顔ひとつで様々な感情を表すので、いつも笑ってばかりいる。ほとんどコミュニケーションというものができていない私には、彼女の気持ちを推し量ることがうまくできない。私にわかってほしいと思ってもいないだろう。
「あたしはねえ、チビでデブでブスでしょ。まあデブはどうにかできるかもわかんないけど、チビとブスはどうにもなんないじゃない。ていうか、デブじゃなくなってもブスには変わんないし、変わるものったらせいぜいあだ名くらいだと思うのね。歌川だからブタ川とか、あとハラミとか呼ばれるけど、んー、なんか、わかんないけどまたうまいことモジったあだ名考えてくると思うのよ。レイミをモジってハラミってのはちょっと微妙だけど。もうちょっとうまいことできるんじゃないのって思うんだけど、ま、そんだけ。なんも変わんない。たぶん高校行っても、行くかわかんないけど大学とか、あと就職してもね、あたしはそういうところで常に一番下が指定席になるような、そういうチケットを握って生まれてきてるのよ。たぶんさあ、あたし、銀の匙じゃなくて銀のチケットをくわえてきたんだわ。くわえてるっていうか、全身に貼りついてんだけどね」
 それは、と反論しかけたけれど、その続きは何も出てこなかった。麗美の言うことは正しい。美しくないもの、異形であるもの、平均よりも下のもの、多数派に属さないもの、そういうものが虐げられるのは、子供の世界だけの話ではない。大人は子供たちの政治に「道徳心がない」と眉をひそめるけれど、あれこれもっともらしい理由で誤魔化さなくては何かを嘲笑い忌避することもできない大人の世界より、純粋に「我々と違うお前が悪い」と言う子供の世界の方が、よっぽど筋が通っている。
 それでも私は麗美に抗う言葉を吐いた。
「みにくいアヒルの子、ってお話もあるよ」
 麗美はその低い鼻をひくつかせるように笑った。ブタが餌探してるぞ、と嘲笑されているのを知っていて、彼女はその表情を浮かべることをやめない。
「中学生にもなっておとぎ話なんか信じてんの。残念だけど絵本じゃなくて理科の教科書に書いてあることのが圧倒的に現実なの。あのねえ、毛虫はね、大きくなったって蛾にしかなれないのよ」
 噛みつくように分厚いカツサンドを咀嚼しながら、麗美はわずかに頬肉をあげてフフフと息を漏らす。厚い脂肪に阻まれてもなお動く彼女の表情筋の凄さに、束の間思いを馳せた。
「まあ、煮殺されて繭剥がれるよりはマシだろうから、何としてでも蛾にはなってやるけどね。ふざけてるじゃない、あたしは繭から出たって這いずりまわる蛾なのに、あたしを殺して剥ぎ取った繭は綺麗な着物になるっての。さすがにちょっと悲惨すぎ」
 唇についたソースを舐めるまるい横顔に、外側から言えることはもう何もなかった。思いつく言葉はすべてうすっぺらで、偽善的で、そしてそれを口に出すことは彼女を見下すことに他ならないのだ。
 麗美の後ろをひらひらと飛んでいくカラスアゲハのしっとりと光る黒い翅を見ながら、黙って弁当を口に運んだ。


 ぬめぬめと肉食のなめくじのような舌が唇をぬぐうのを見ながら、私はあの時の麗美を思い出していた。二十四歳の麗美は、年月を脂肪として全身に重ねたほかはほとんど変わっていないように見える。
「遠慮してるの? 奢りなんだからぼんぼん食べなよ」
「結構これでもいつもより食べてるよ」
「ほんとォ? 大木さん、相変わらず少食なのねえ」
「歌川さんも相変わらず」
 んふふん、と笑ってワインに口をつける麗美は、重たげな細い目もたっぷりとした肉も変わらないのに十年前と違いどこか妖艶だった。小柄な体に凝縮された肉の存在感が、一種独特の色気として彼女をうっすらと覆っている。
 街中でヒールが折れて転んだ女性を助けたら中学校の同級生だった、という陳腐な恋愛ドラマのような再会を、麗美は「もうね、一周して逆にロマンチックじゃないの、あたしたち」と笑った。彼女の体重を健気に支えていた華奢なヒールがなんだかカーストの最下層をひとりで務めていた昔の彼女のようで痛々しかったけれど、きっと彼女はそんな感傷など「あたしは折れなかったじゃないの、一緒にしないでよ」と笑い飛ばすのだろうと思うと、再びきらきら光る繊細なデザインのミュールを買う彼女を止める気にはなれなかった。
「でも本当に、私、近くの靴屋さん検索して連れてっただけなのに、奢ってもらうなんて悪いよ」
「あとコンビニで新しいストッキングと絆創膏も買ってきてくれたじゃない」
 高級ブランドの装身具と派手にきらめくドレスから、今の麗美がどんな職業についているのかは想像がついた。だからこそ、「お礼に奢るよ」と私の給料では入るのを躊躇うようなレストランを示されて、最初は拒否したのだ。美しい蝶たちがネオンサインに群がる夜の街で、彼女はきっと折れない一本のヒールとして無数の人間に踏みつけられながらもそのひとつの世界を支えているのだろう。
「いいじゃない。あたし大木さんの何倍も稼いでんだもん。お礼くらいあたしの気が済むようにさせなさいよ。じゃないとバッグに現金ねじこむよ」
 呆れたように笑い、くわっと口を開けてステーキを噛む。好き勝手な方向に伸びる歯でこまかく潰された牛肉が胃で溶かされ、新たな脂肪の層として積み重なるのが見える気がした。鯛のポワレのほのかに色づいた白さが彼女の内側を想起させて、私は無意味にパンばかりちぎってしまう。
「あたしね、相変わらずチビでデブでブスだけど、お店のナンバーツーなのよ。あたしより可愛い子も綺麗な子もいっぱいいるけど、あたしの方が上」
 意外な発言にパンのひとかけらを皿に落とすと、私の動揺を咎めるどころか「びっくりしたでしょ?」といたずらに成功した子供の顔で笑った。
 店を聞いても当然縁がないのでわからなかったが、ナンバーワンだという女性の源氏名はテレビで聞いたことがあった。肩へ雪崩れるロングヘアに、爆発しそうな胸と不釣り合いな細い腰、丹念に整えられた顔を持つ、「夜の店の女王」にふさわしい美貌と風格を備えていた。その次に人気なのがこの麗美だというのは嘘のような話だけれど、信じられると思った。彼女は賢く優しい。常に一番下が指定席になる銀のチケットが全身に貼りついている、と語っていた外見のまま、一握りのトップクラスへと昇ることができるほどに。
「歌川さん、やっぱりみにくいアヒルの子だったじゃない? おとぎ話って馬鹿にしてたのに」
「ええ? どこ見て言ってんの。あたしは蛾よ」
 そんなことない、と重ねようとする私を口の端で止めて豪快に赤ワインを飲みほした。唇がさらに色づいて、何か別の生き物のように蠢く。きっといちごジャムのような色の舌も濃く染まっているのだろう。
「でもフランス語ではね、蛾のことを『パピヨン・ドゥ・ニュイ』、夜の蝶って呼ぶのよ」
 透ける翅のようなストールを巻きなおしながら、麗美はぬたりと笑った。


 食事を終えて別れ、駅へ向かう途中でカラスアゲハが目の前を横切った。夏の夜の底に残るわずかな明るさを求めるようにふらふらと低空飛行する黒い蝶は、スクランブル交差点を埋め尽くす帰宅ラッシュの足元に消えていった。私は粉々に踏みつぶされた翅を見ないように、ひとつ向こうの信号を目指して歩く。
 理科の教科書に書いてあることが圧倒的に真実なのよ、と笑った中学生の麗美は、蝶も蛾も生物学的には区別がないのだと、果たして知っていただろうか。


Fin


20120826sun.u
20120412thu.w

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