通電したフィラメント

「君、人と人との出会いは奇跡だと思わないかい?」
 そんな気の利かないセリフを全然知らない人から投げかけられて、律儀に足を止めてやるほどの余裕はなかった。
 殴られた頬の筋肉を動かしたくない。人に構っている気持ちのゆとりもない。そもそも訳のわからない人と関わりたくない。三つも理由があれば十分すぎるだろう。と黙ったまま通り過ぎようとしたおれの横に、その人は勝手に並んだ。知り合いみたいな顔をしているが、覚えていないとかではなくて完全に知り合いではないはずなのだ。学区の違う中学の制服に身を包んだその人は、晴天にもかかわらずおれの制服が泥まみれになっていることも、ところどころに血がにじんでいることも一切気にせずにべらべら喋る。歩調を速めて逃げようにも足が痛いので無理はしたくない。無視し続ければいい、と自分に言い聞かせた。
「何十億人のなかのたったふたりが出会った、とかそういう部分の話ではないよ。いいか君、ヘラクレイトスが言っていたように、人はおなじ人に会うことは二度とできないんだ。君がそうして一歩踏み出すたびに、ひとつ息を吸うごとに、一回まばたきをするだけでも、もう君は一秒前の君じゃない。まばたきをした後の君とまばたきをする前の君は既に異なっているからね」
「…………宗教っすか?」
「アア?」
 絞め殺されるカラスのごとき奇声を発しておれを見た。訳わかんねーこと言ってるから、宗教かなんかの勧誘とかなんか的なアレかなって、と続けると、肩をすくめて「君、中学生だろう? 一応レベルは合わせたつもりでいたんだがな。ジェネレーションギャップというやつかな」となんだかむかつくことを言う。胸元に2-Eと彫られたクラス章をつけているから、おれと一年しか違わない。ジェネレーションは確実に同じだろうがよ。
「あぁ、いや気にするな、説明が伝わらないのは語り手の落ち度だからね。図解しよう、ちょっと見たまえ」
 言うなりしゃがみこむと、拾った小石でがりがりと地面をひっかきはじめた。ヘタクソな熊手のようなものを描き終わると、一本ずつ順に指していく。おれが立ち去るとはハナから思っていない様子だ。なんなんだこの人の自信、と思いつつも大人しく立ち止まる。
「つーか、あんた誰なんすか」
「誰でもよかろう。君も本当はどこの誰だかなんてどうでもいいんだろう? 呼び名が欲しいなら先輩とでも呼んでくれ、一年生君」
 いや全然よくねえよ。誰なんだよ。不審者じゃねえかよ。とは思ったが、深堀りするのも面倒だし、頬が腫れていて喋りづらいので黙ることにした。
「いいかい、ある時点の君がここにいる。で、次の一秒、まあ一秒以下でもいいんだが単位が面倒だから一秒とするが、とにかく一秒後の君はこう……一秒分だけ余計に生きている存在だ。いくらなんでもXとX+1が同じじゃないことはわかるだろうね?」
「…………」
「ん、よろしい。何だ君もしかして唇が切れてるから喋らないのか? なら今みたいに頷くなりなんなりすればいいものを。声だけがコミュニケーションではないのだからね。オレンジだけが果実じゃないようにさ。で、だよ。XをXのまま留めておくことは不可能なわけだ。時間を止めることはできないからね。仮に時間を止めたとしても、それを観測することはできないし、できたとしたら観測者の主観的には時間は進んでいるからやっぱりX時点の君を保存したことにはならない。まあ実はX時点の君といつでも会える方法がないわけでもないんだが、ま、それは今の話とは関係ないからよしとこう。ああそれから、一秒を無限に分割しても、ゼロに近づきはしてもゼロにはならない。わかるかい?」
「……」
「だろうね。限りなくゼロに近いものはゼロではない、もしもどこかの時点で分割したソレがゼロになってしまったら、その集合体もまたゼロということになってしまうものな。つまり言いたいのはね、このX時点の君と出会えるタイミングというのは全宇宙にこの一度きりしかないのだよ。人と人との出会いというものはそういう相互の奇跡の集合体なんだ。毎瞬ごとに起きているからみんな慣れてしまって認識しなくなっているけれどもね、本質としてはそうだ。一瞬のフィラメントの輝き、かつ光りかつ消える、そういう貴いものなんだよ」
 言葉を切って、先輩はおれの顔を下から覗き込んだ。ぐらぐらと揺れる黒目は死んだ魚よりも生気がない。艶がなく真っ黒な瞳はなんだか吸いこまれそうな気がした。魅力的ということではない。文字通りブラックホールのようにおれを吸いこんで砂粒のように圧縮するのではないか、と不安になるような印象を受けるのだ。
「だからさぁ、そういうものを大事にできないってのは阿呆だし、物事の本質がわかってないやつなんて言わずもがなだよ。そういうやつから距離をおいても全然負けとかそういうものではないんだよ。意味はわかるかな?」
 わかんねーよ、と口に出す寸前で気づいた。もしかしてこのひとはおれのことを慰めているのだろうか。訳のわからないことを並べ立てて、大層な理屈をこじつけて、どこの誰だかも知らない人間を元気づけようとしているのだろうか。
 殴られても蹴られても、痛ぇなあと感じるばかりでついぞ出てこなかった涙がぼろりとこぼれた。あ、と思ったときには後から後から押し出されるように続いて、真下にいた先輩の顔を濡らした。すいません、と言おうにも鼻が詰まるわ喉がひくつくわでろくな声が出てこない。
「別に謝る必要なんかないよ。君との出会いも奇跡だし、奇跡は等しく貴いものだ」
 そう笑いながらのっそりと立ち上がった先輩は、おれの頭を抱き寄せてぐしゃぐしゃと髪の毛を手櫛で梳いた。撫でているつもりだったのかもしれないが、ヘタクソすぎて本当のところはわからない。

 これがおれと先輩の出会いだった。


Fin


20130113sun.u
20121226wed.w

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