切断されるフィラメント

『君、生きることに意味はあると思うかい?』
 出会った頃からちっとも変わらないヘラヘラした口調で先輩は語る。果たしてこの人が自分のペースを崩すことなんてあるのだろうか、とおれは思った。仮にヤクザと喋ることがあっても一切態度を変えなさそうだ。
「あるんじゃないですか」
『ハ! 珍しく一発正解じゃないか。まあ朱に交われば赤くなる、カラスに混じればアヒルも染まるというからね』
「後半は初耳ですが」
『オリジナル故事成語さ』
 全然故事に基づいてないじゃないですか、と突っ込むよりも早く先輩が言葉をつづけた。いつもの調子だと思っていたけれど、少しだけ会話のテンポが早いような気もする。
『そうだよ、生きることに意味はある。君の言うとおりだ。では生きる意味とは何か?』
「……わかりませんよ」
『幸福の追求だよ。誰だって不幸を求めたくはないだろう。仮に自分の意思で不幸を求めていると主張する人がいるとしても、欲しいものを手に入れようとしているわけだからそれも幸福追求のひとつの形でしかないわけだ。人は自ら不幸になることはできても、不幸を求めて不幸になることはできないのだよ』
「幸せってなんですか」
『一昔前のフォークソングみたいなことを言い始めたな。だが質問自体はいいね。幸福とは簡単に言えば自分の求めるものだ。だから人の置かれた状況や経験によって千差万別だよ。真冬の戸外で凍えている人間とサウナの中にいる人間とじゃあホットコーヒーの価値は全く違うだろう。ところで君は幸福を無意味だと思うかな?』
「ないよりはあるほうがいいと思いますが」
『そうか、君が平平凡凡な感性の持ち主で良かったよ。幸福に意味がないと言われたらこの先大幅に方向転換を余儀なくされるところだったからね。さて、シンガーによれば苦痛を与えられることは不正であるそうだよ。つまり苦痛を与えられている状態は不正であり、それを是正し、苦痛を与えられていない状態へと移行することは、苦痛を与えられている状態よりは幸福と言えるんじゃないかな。苦痛を求める人はいないからね』
「マゾヒストの人とかはどうなんすか?」
『マゾヒストにとっては苦痛が苦痛じゃないんだから、例外ではないさ。先程の幸福追求と、同じことだよ。心身を痛めつけられている、ように見えても、本人がそれを求めているならば、苦痛とは呼べないだろう。自らを罰したがるような、人も同じで、罪深い自分を、罰している、という安心が欲しくて、求めるわけだからな』
 先輩の息が切れ始めた。削いだように肉のない、生のにおいがしない先輩の体つきからして、喋りながら走るのは相当きついだろう。むしろ今までよくこれだけべらべら話せたものだ。そんな急がなくてもいいですよ、別に間に合わなくてもいいでしょ、と笑ってみるけれど、『浅からぬ交誼を結んだ仲じゃないか』と一蹴された。友達、と言い切るには微妙な関係だけれど、おれのために走ってきてくれる人がいるというのはなんだか嬉しい。
『苦痛、から逃れることは、苦痛でいるより、幸福だ。幸福追求という、人生の目的に、意味に適っている。いいか、だから、今から君のすることは、生きる意味が見つからなかったから、なんて、ニュースで報道されるような、そんなものじゃない、むしろ、生きる意味を求めたがゆえに、正しく行動したがために、君はそうするのだ、それを選ぶ、のだ。だからな、だから君に、やめろとは言えない、君の行動は正しいとしか言ってやれない、これくらいしかできない、でも最初から、出会ったときから、どうしようもなく、君を!』
 荒い息遣いと、時折咳き込む音が近づいたり遠ざかったりしながら聞こえる。先輩はその焦点の合っていない目やぼさぼさの黒髪から漂う不審者感とは裏腹に、根気強くて優しかった。泥だらけの制服で歩いているおれを気にして、赤の他人にも関わらず話しかけてくれた。助けてほしいという気持ちすら忘れていたおれの感情を人間らしいところまで引っ張りあげてくれた。
 先輩はおれのすることをいつでも肯定してくれていた。逃げたいと思ったときも、学校に行きたくないと思ったときも、そして今日の選択さえも先輩流の理屈で肯定して、だから後ろめたいなんて思うな、と背中を押してくれる。
「君を救いたかったんだよ!」
 最後の一言はスピーカー越しではなく、向かいのホームから直接聞こえた。おれのいるホームを当てようとして賭けに負けたのか、それともしっかりと見届けるためにわざわざ向かいに駆け上がってきたのかはわからない。いかにも体力のなさそうな先輩は肩で息をして、膝に手をつきながら、それでもおれの方に顔をむけて視線を外さない。相変わらず感情は読みとれない。泣いているようには見えないからいいか、と思った。最後に見るのが泣き顔ではどうにも後味が悪い。
「先輩、おれは先輩に救われましたよ」
 通学に使っていたときは悪魔のようだった電車が、抱きとめてくれる存在だと思った途端優しいものに見えるのが不思議だ。携帯電話を線路にふわりと落とすように投げると、ヘッドライトを受けたボディが白い蝶のようにヒラリと光る。
「さようなら、ありがとう、笑って、先輩!」
 最後くらい名前を呼ばれたかったけど、そういえば教えてなかったな、と気づいたのはホームを蹴った一瞬後だった。


Fin


20130113sun.u
20121231mon.w

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