花色のオ・ルヴォワール

 ねえねえ、とヤスミがとろんとした瞳でぼくを見るのはおねだりの合図だ。
「海が欲しいよ。うんと大きいのが」
 ヤスミ、海なんかいいもんじゃないぜ、もっと他のにしよう、とぼくは言わなかった。ヤスミのことはけっこう好きだが、海の欠点やデメリットをこんこんと説いてやるほどの友情は感じていなかったからだ(ヤスミにしたってそうだろう。ぼくらはなかなかうまい具合の付き合いをしている)。それに、もっと他の、と提案する何かも思いつかなかったし。
 ぼくはいつものように黙って頷き、海の種を買った。店で買おうとするとなかなか見つからないけれど、インターネット通販とクレジットカード、それにコンビニ受け取りを組み合わせれば、悪魔的な手軽さで二日後には届いてしまう。つくづくいい世界になったものだ。情緒がないと眉を顰めるひともいるけれど、この時代にはこの時代なりの新しいデジタルな情緒がないこともない、とぼくは思う。
 海の種は濃く青い硝子玉のような粒だ。うんと大きいの、とヤスミが言っていたから念には念を入れて五粒も買った。掌で転がして軽く波を起こしてやると、ぴちゃんぴちゃんとかすかに音がする。育て始める前にこうしてある程度流れを作っておくと、深層海流が力強くなるのだそうだ。手を止めても水の揺れる音が切れなくなったあたりで、スープカップに種を入れて牛乳を注ぐ。海はあらゆるものを栄養にする(すべては海から生まれたのだから、海がすべてを栄養にして育つのは当然のことだ)とは知っていても、なんとなく滋養満点のもののほうがうまくいく気がする。
「牛乳ではじめるの? 君は面白いね」
「よく育つ気がしたから……」
 ヤスミに言われるとやっぱり普通にミネラルウォーターや炭酸水なんかではじめておけばよかった気がして、でももう五粒ともカップに入れてしまった以上このまま続けるしかないのだと自分に言い聞かせる。いつもそうなのだ。自分で決めたことはなんでも過剰に失敗してしまったように思えて、実際にはそう悪くもない選択だとわかっていても、ああしておけばよかったこうしておけばよかったとくよくよすることになる。割れた瓶を振り向いたって元に戻るわけじゃない、次割らないようにするにはどうすればいいかを考える方が正しいし有意義だ、と、おまじないのように胸のうちで繰り返す。それでくよくよしなくなるわけじゃないけれど、感情をどうにかできないのなら、理性を最大限に働かせて、理屈で行動するしかないのだ。
「ほんとだ。なんかそんな気がする」
 だからヤスミがそう笑ってくれたとき、ぼくはちょっとだけ泣きそうになったのだった。ぼくでさえ疑っている牛乳の効能を、あたりまえのように信用してくれるヤスミ。なんでそんなことしたの、失敗したらどうすんの、と言わないヤスミ。
 ヤスミ、海なんかいいもんじゃないぜ、とぼくはやっぱり思う。思うけれど、ヤスミが嬉しそうに「きっといい海ができるよ」とスープカップをつつくから、ぼくは何がなんでも最高の海を育てなくてはならないのだ。


     ***


 スープカップからボウル、片手鍋、パスタ用の胴長鍋、と順調に海は育っている。移し替え用に、と空き地に捨てられていた猫足バスタブを拾って帰ってくると、ヤスミが遊びに来ていた。
「なに、それ」
「この先移し替えるのにいいかな、って」
「ちょっと大きくない?」
「大きいけど、いつでもあるものじゃないから、落ちてるときに拾っといたほうがいいでしょ」
 ヤスミは一瞬きょとんとしてから、口元をおさえてくっくっと笑った。なぜ笑われているのかわからないので、ぼくはヤスミの次の言葉を待つしかない。
「ほんとそうだ、その通り、バスタブなんてめったに落ちてないんだから落ちてるときに拾うべきだよね」
「うん」
「いやー、うん、君はほんとにいっつも正しいよ」
 正しいのならば一体なぜそんなに笑うのだろうか、と不思議になるけれど、ヤスミの考えることがわからないのはいつものことだし、わかりたいと思うほどぼくとヤスミは親しくない。そもそも、自分ではない誰かの考えなんてものはいつだってわからないし、わかると思うことは、わからないから仕方がないと諦めることと同じくらいに傲慢で不誠実だ。
 大事なことは誰のことがわかるか、どれくらいわかるかではなく、誰をわかろうとするかの順位を明確にすることだとぼくは思う。わかろうとするために必要なコストは膨大で、それに比べれば個々人のもつリソースはあまりにも限られている。誰にどれだけのものをかけられるのかを自分で把握しておくこと、それが人間関係においてなるべく後悔を減らすコツであり、誠実さの根本だ。
 ぼくにとってヤスミは、海がほしい、と言われれば付き合うけれど、どうして海が欲しいの、と訊くほどではない相手だ。それはヤスミのことが嫌いだとかどうでもいいとかいうことではない。ヤスミに対する好意の最大値がそこだ、ということだ。こう見えて、ぼくはヤスミのことがけっこう好きである。ヤスミのほうがどうかは知らないが。
「こんなに大きいの、運ぶの大変じゃなかった?」
「まあまあ」
「言ってよ。手伝ったのに」
「いいよ」
 はじめたのはヤスミに頼まれたからだけれど、海を育てているのはぼくであってヤスミではないから、それに関わる雑事はぼくがやるべきだ。そう説明すると、ヤスミはわかったようなわからないような顔で「ふうん?」と首を傾げた。
「君は潔いね」
 そうではない。ぼくは単にヤスミに「バスタブを拾うから手伝ってくれ」と頼むコストと、自分ひとりでバスタブを持ち帰る苦労とを天秤にかけて、後者のほうを取っただけの話だ。なぜバスタブを拾うのか、バスタブはどれくらいの大きさなのか、重さはふたりで持てるものなのか、それは拾ってもいいものなのか、そういったことを訊かれるかもしれない煩わしさを厭ったのである。それに、ヤスミに「ちょっとごめん手伝えない」と言われたりしたら、ぼくは多分腹を立ててしまったと思う。ヤスミ、ぼくがいったい誰のために海なんか育ててると思ってるのさ、手伝えないってなんなんだ、そんな余分な不機嫌を抱えるくらいなら黙々とひとりで汗をかきながらバスタブを台車に乗せて帰ってくるほうが断然マシだ。
「頼むのがめんどくさかったんだ」
 長々と説明するのも億劫だったので、その一言で片付ける。ヤスミは目を細めて、「そういう言い方するとこが潔いと思うよ」とぼくのことをいいように言ってくれた。ぼくはヤスミのそういうところがすこし苦手だ。ヤスミは何かにつけてぼくを善い人間だと誤解するので、なんとはなしにむずむずする。ぼくはヤスミのいうような善い人間ではないからだ。そのことはぼく自身が一番わかっている。ヤスミの知っているぼくと、ぼくの知っているぼくとでは、情報量が違いすぎるのだから、当然といえば当然だが。
「あ、おみやげ持ってきた」
「おみやげ?」
「砂」
 ほらみて、星の砂も入ってるやつだよ、とヤスミが袋からあけた砂を広げてみせる。裸足で歩くのにぴったりの、乾いていてすこし熱くて粒のなめらかな上等の砂だ。指先で探ってみると、星の砂がいくらか当たった。「そろそろ浜辺の準備が必要かと思って」とヤスミがひとつまみの砂をぱらぱらともてあそぶ。沖縄産、と聞くと「んー、国産じゃなかったけど、南欧かどこかのだったかな」とくちびるをとがらせて思い出すように視線をさまよわせた。
「あ、レシートあるかも」
「いいよ、そこまでしなくて。砂ありがとう」
「ありがとうって、いーよ、だって頼んだのこっちだし。でも喜んでもらえてよかった」
 そう笑って髪をかきあげると、栗色のショートカットが陽差しに透けて繊細な金に光った。喜んでもらえてよかった、の一言に、ヤスミの育ちの良さがあらわれている。ぼくのために持ってきたのではなく、ぼくを喜ばせたいという自分の都合で持ってきたのだ、とさりげなく表明するせりふ。ヤスミはそのぱっと目を引く華やかな外見とは裏腹に、こまやかに行き届いた話し方をする。あまり愉快ではない半生を送ってきたのに、ひとを呪う言葉を吐かないヤスミの美しさが好きだ。悲しいことや腹が立った出来事を話すとき、「聞いて、最低なんだよほんとうに」と、いつでも笑いながらはじめるのだった。平々凡々な人生を送ってきたにもかかわらず、劣等感で潰れかけながら生きているぼくには、ヤスミのふしぎに清らかな強さがまぶしい。


     ***


 バスタブでも溢れそうなサイズになったころ、ぼくは海を外に出した。ここまで大きくなっていれば、水たまりと一緒に干上がってしまう心配はない。そろそろ浜辺が必要かな、と先日もらった砂をあけていると、ちょうどよくヤスミが遊びに来た。
「あ、浜辺作ってる」
「うん」
「見てていい?」
「おもしろくはないと思うけど」
 袋の中身を一定の厚みになるようゆっくりと海のふちに沿って撒く。素人だから当然むらが出来るものの、手で均せばいいことだ、と割りきった。そもそも、海だ。完全に整っているよりは凹凸のあるほうがそれらしくなるだろう。
 おおまかに砂を撒き終えたのち、海岸線を整えながら「いい浜になるよ」と言うと、ヤスミは「いい浜にしてくれるんでしょ?」と笑った。これだけ素材がよければセンスのあまりないぼくでも適当にのばしてやるだけでいいものができるし、つまりこれはぼくでなくたって構わない仕事なのだけれど、「期待してる」とヤスミが言うので、うっかり「がんばるよ」などと頷いてしまった。実に浅はかである。
 ヤスミはきっとどんなにぐちゃぐちゃのへたくそな浜ができても、喜んで走り回るだろう。ありがとう、頼んで良かった、さすがだね、なんて言いながら。ヤスミはぼくのすることを喜んでくれるからだ。ぼくはヤスミの言葉を全部社交辞令だと思っているけれど、ヤスミは社交がとてもうまいので、嘘っぽくきこえない。いつもひとりでぼんやりと苔を摘んでいるぼくのようなやつには、まったく出来過ぎたひとだ。
「海、ずいぶん大きくなったね」
「そうだね。バスタブから移すとき大変だった」
「どうやったの?」
「どうって、普通に両手で抱えて、持ちだして、おろしただけ」
「君の背丈より大きいのに。大丈夫だった?」
「大丈夫、海だから透けてる」
「そういうことじゃ……ふふ、そういう、ははは、ことじゃなくて」
 またよくわからないところでツボに入ったらしく、ヤスミはしばらく肩を震わせていた。ヤスミ、ぼくは君のことがわかるなんて思っちゃいないしわかろうって気にもならないけど、せめてその不可解な笑いのツボだけでも把握できたら、ぼくらの会話はずいぶんスムーズになるんだろうな。まあ、いちいちへんなところで中断される会話も嫌いじゃないから、改善する気はないのだが。ヤスミの笑いがおさまるまで、ぼくは砂浜をそろそろと撫でて待つ。やっぱりいい砂だから触っているだけで気持ちがいい。いくらしたんだろうな、と下世話な疑問が浮かんだが、ヤスミはぼくと比較にならないお金持ちなので考えるのはよしておいた。頼まれた以上海を育てるのはぼくの責任下でやるべきことだが、しかしこれはいずれヤスミのものになるのだ。砂にいくらかかっていようが、ぼくの知ったことではないだろう。ヤスミがヤスミの金でヤスミのものを買った、というだけの話だ。ぼくには関係がない。
「きれいな海岸線」
 ようやく笑い終わったヤスミが、ぼくの指先に視線をむけて呟いた。ぼくからすればあまり出来がいいとは言えないいびつなものなのだけれど、ヤスミが満足してくれるのならそれで充分役目を果たしている。これはヤスミのための砂浜、ヤスミのための海。ぼくがどう思うかなどどうでもいいのだ。
「ちょっと歩いてみてもいい?」
 どうぞ、とてのひらを向けると、ヤスミははればれとサンダルを脱ぎ、かろやかな足取りで浜辺を歩き出した。ひとあしごとにヤスミの歩みが濃い色にへこんで点々と記されていくのは、見ているだけでなんとはなしに心が浮き立ってしまう。ああ、ぼくの作った砂浜は、ほんとうに砂浜になったのだな、という気がしてくる。砂浜にほんとうも嘘もないが。
「君もどう」
「ぼくはいいよ。ヤスミが気に入ったならそれでいい」
 だってぼくはこの海と関係ないからな。
 偽らざる本心だが、ヤスミは「謙虚だねえ、君は」とまたいいように誤解した。君のなかでぼくは一体どんな聖人君子になってるんだ、と訊きたいような確かめたくないような曖昧な気持ちになる。
「君はぼくをすこし善い人間だと思いすぎてる」
「そういうことを自分で言うひとに悪人はいないんだよ」
「…………。ほんとにね、ヤスミ、君はいつか痛い目を見るからな」
「照れてる?」
「てない!」
 ヤスミはくすくす笑いながら「そういうことにしておく」と走っていった。といっても、まだまだ小ぶりな海に見合う長さの浜辺だから、すぐに突き当たって戻ってくる。
 ヤスミの言うような善い人間であればいいと思う。常に正しく迷わない善い人間であればいいと思う。そうすればどうでもいいことにくよくよせず、自分の愚鈍さに苛立たず、後悔などという時間と感情の浪費でしかない無駄な行いを回避しながら穏やかに生きられるはずだからだ。他人にどう思われようが構わない。ぼくはぼくのために善い人間になりたい。だからヤスミに善く誤解を受けるたび、おまえはその理想にはるか遠いとつきつけられているようで、すこし悲しい。
「ねえ、ヤスミ」
「んー?」
 なんでぼくなの、なんでぼくに海が欲しいと言ったの、そう訊こうとしてくちびるがふるえた。それを訊けるほど、ヤスミに踏み込んでいいとは思えなかった。
「……楽しい?」
「楽しいよ! 友達と一緒にいるときはふつう楽しいでしょ、当然」
 ヤスミがあまりにもやすやすとぼくを友達などと呼ぶので、余計に泣きそうになってしまって困った。ヤスミは言葉をていねいに扱うけれど、友達というものについての認識は世間並みだ。ぼくらみたいなのを確かに世間一般じゃ友達って言うのかもしれないけど、ヤスミ、君はぼくなんてほんとうは友達だと思ってないだろ? ぼくも君のことを友達とは思ってないけど。海くらいなら育てるけど、君が困ったときに助けてやれるほどの誠実さはないよ。
 そんなぼくの様子など気づかずに、ヤスミは浜辺の砂をはね散らし、白鳥の湖もどきをでたらめな調子で踊って遊んでいる。


     ***


 海を育て始めて三ヶ月経ち、そろそろ本物の海と遜色ない大きさになるころ、ヤスミがいなくなった。いや、いなくなったというのは正確ではないのかもしれない。ヤスミは海の向こうへ行ったのだ。
「…………」
 気づいたのは夜更けだった。満月に一日分だけ足りない、しかし充分に明るい月を眺めながら砂浜の点検ついでに歩いていたところ、ヤスミの靴が落ちているのを見つけたのだ。慌てて周囲を確認したけれど、ヤスミお気に入りのやわらかく光る銀色の革靴が、駈け出した勢いそのままに脱ぎ残されているほかには何も無かった。
 別れの手紙や、それに類する品は残っていなかった。波が攫ったのか、と思おうとしたが、靴が無事なのだからその可能性は限りなくゼロに近い。そもそも、いつだってきちんと靴を揃えるヤスミが、こんなふうに駆け出して行ったのだから、そんな余計なものを用意する余裕なんてなかっただろう。
 ヤスミは行ってしまったのだ。あまりにも唐突に。
 ヤスミがいなくなるのは初めからわかっていたことだ、ヤスミは海の向こうに行きたいから「海が欲しい」と言っていたのだ、だからヤスミは自分の行きたいところへ行ったわけで、それは海のこちらがわにいるよりずっとずっとヤスミにとって幸せなことのはずだ、と思考がするすると現れては流れて消えた。流れていく幾筋もの言葉はどれも正しかったけれど、だからといってぼくの涙が止まるかといえばそうではない。
 ヤスミ、と呼ぼうとして、呼ぶ権利などないように思われて止めた。ヤスミに言われて海を育てたけれど、どんな気持ちで「海が欲しい」とヤスミが言ってきたのかぼくは一度も考えたことがなかった。それがヤスミのためになるのかどうかなんて考えようとも思わなかった。ヤスミがほしいと言った、ぼくはそれを拒むのが面倒だからと引き受けた、それ以上のことなどぼくの知ったことではない、いや、知るべきではない、「なぜ海が欲しいのか」なんてきわめてプライヴェートでウェットな質問をするのなら、その答えを聞くにふさわしい覚悟が必要で、ぼくはそれだけのリソースをヤスミに割いてやれるほど、ヤスミを大事に思っていないのだから、そんなことをすべきではない。だからぼくは自分のしたことをひとつも後悔していない。ヤスミとの付き合い方は、ぼくなりに誠実なものだった。
 それでも嗚咽は止まらない。理屈で感情は収まらないから仕方ない。ぼたぼたと落ちる涙は点々と浜を濡らして、いつかヤスミがつけた足跡のミニチュアのようだった。
「……」
 ヤスミと飲んだソーダ水のはじける辛さを思い出した。ヤスミと見た夕焼けのあかあかと燃え落ちるさまを思い出した。ヤスミと整えた海岸線が何度やりなおしても曲がってしまって笑ったことを思い出した。そしてヤスミとの思い出はそれくらいだった。ぼくとヤスミの関係を話せば、世間一般は友達と認めてくれるだろうけれど、ぼくはヤスミを友達とは呼ばない。それでも、ぼくはヤスミのことがちゃんと好きだった。
 ヤスミの海を作るのが本当にぼくでよかったのかはわからない。こんな一大事に関われるほどヤスミと親しかったとは思えない。ヤスミはすてきなひとで、いつも笑っていて、気配りがこまやかで、だから海を作るのだってぼくより余程適任の誰かがいたはずだ。それでもヤスミがぼくを選んでくれたことを根拠に、「友達」と言ったあの日のヤスミは嘘をついていなかったのだと思っても、決してただの自惚れではないだろう。ヤスミはぼくが思っていたよりも、ちゃんとぼくのことを好きだったのだと。
 そのことがまたつらかった。ヤスミが好きなのは、ヤスミの見ていた善い人間のぼくだ。そしてぼくはそう信頼されていたような善い人間などではない。ぼくはずっとぼく自身のために善い人間になりたかったけれど、きょうだけは、ぼくが善い人間だったらどんなによかったろうかとヤスミのために思った。ヤスミが信じてくれたような人間だったらどんなによかったろうか。
 いい加減に泣きつかれたのは月がすっかり薄まって、そろそろ夜が明けようかという頃だった。ああ、ヤスミが行ってしまったのだから、ぼくはちゃんと見送らなくてはならない、ということにようやく思い至ってよろよろと立ち上がる。ちょっと歩いたところにある空き地で、名前のわからない白い花を摘めるだけ摘んでくると、靴のそばに戻り波にそっと乗せた。
 花は海の色を映して青く光りながら、足跡のような間隔で水平線のほうへ水平線のほうへと流れていく。ヤスミがいまどのあたりにいるのかはわからないけれど、一輪くらいは追いつくといいなと思った。ぼくが流した花だと、さようならの代わりだとはわからなくていいから、とにかくヤスミのところに届いてくれるといい。
「楽しかったよ。ぼくもずっと楽しかった」
 ヤスミのことはやっぱり友達と呼べない。ヤスミがいなくなってからそう呼ぶのは裏切りだ。だから嘘にならない範囲の精一杯を声に出した。楽しかったよ、と繰り返しつぶやきながら、ヤスミの靴に残りの花をいっぱいに詰めて流す。やわらかな銀色がぼうっと上気したように染まっていくのを見送りながら、ぼくはようやく太陽が昇っていることに気がついた。
 雲に透ける朝日が甘やかな薔薇色の気配になって海へ染みていく。この美しい世界のどこかにヤスミがいるのだ。そこへ続く道としての海を育てたのはぼくなのだ。嬉しい、も、悲しい、も違う気がして、ぼくはとにかく手を振った。
 ヤスミ、ぼくも楽しかった。楽しかったんだよ。ほんとうに。
 ほんとうだよ。


Fin


20150101thu.u
20150101thu.w

「さよならだ水平線よりなお遠く海のこちらはさびしいところ」
For Y.K

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