44_2.下準備のこと おまけ



 


「きみもそろそろ覚悟を決めてはどうですか」
 いつものように車で送ってもらう途中、藤見さんにそう言われておれは笑った。内容はわかりきっているけど、「なんのですかあ」とごまかす。
「弟くんと会ってあげたらどうです?」
「何言ってんですか、おれには弟なんていないですよ」
「では言い直しましょうか?」
 藤見さんは相変わらず、バックミラー越しにおだやかに微笑んでいる。こういう場合漫画とかだと「目は笑ってない」ってのが普通だけど、そんなこともない。余計に性格が悪い。はいはい、と両手を挙げて降参した。
「前に『許せとも忘れろとも言わない』って言ったじゃないですか」
「それは美知子さんについての話ですよ。でも彼はきみに何もしていないでしょう」
 たしかに何もしてない。だけど、会いたがるのは向こうの都合だ。それをはねつけるのに充分な理由は持っている、と思う。
「『ホントなら死ぬはず』だった『人殺し』に今更会ってどうなるんですか」
「そんなふうに言うのはやめなさい」
 藤見さんの口調からやわらかさが消えた。あーこわいこわい、と脳味噌の一番外側の皮あたりだけで思った。すみません、と笑ったまま答える。でもホントだったら死ぬはずだったってのも人殺しってのも、母親が言ったことだ。
 おれにとって、母親に捨てられた日のことは傷じゃない。傷というのはいつか治るものだ。醜くひきつれても、痕が残っても。あの日心に空いた穴は未だに塞がる気配すらない。祖父はあんなに忘れろと言ってくれたのに。
「きみはもっと自分を大事にするべきです」
「自分を大事にしてるからあの子と会わないんじゃないですか。会いたくない人とは会わない」
「そうして過去にとらわれ続けていること自体が、きみにとっての不幸でしょう。きみの人生はきみのものです。そうしてこだわりつづけて棒に振っていいものじゃない」
 腹は立たなかった。ただただ面倒だった。藤見さんの言うことはいちいちもっともで、だけど、だからといって従う気にはなれない。
  あのひとは母親だった。小さなおれにとっての全世界だった。おれは四歳の夏、世界に見放されたのだ。「あんたなんかいらない」と。「あたしから奪ってばかりのあんたなんかいらない」と。
 世界に捨てられたことのない藤見さんには、おれの気持ちはわからない。
「それより藤見さん、おれ行きたいところあるんですけど」
「珍しいですね。どちらへ?」
 語調にこめられている、強引に話題を変えたことへのかすかな抗議の色には気づかなかったふりをして、おれは声を出してきっぱりと笑った。
「恭介くんのいないとこまで、連れてってください」


Fin


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