どうしようもない俺に幼女が降りてきた




 俺の朝は遅い。
 高校が徒歩三分ダッシュで一分の場所にあるのをいいことに、平日もギリギリまで寝ている。休日はここ数年、午前中に起きていたためしがない。
「――あー、うるっせえなあ……」
 というわけで、気持ちよく惰眠を貪っていたところを騒音に邪魔された俺は不機嫌だった。そりゃもう不機嫌だった。今なら軽く目からビームとか出るんじゃないかってくらいに不機嫌だった。
 いつも通り午前二時に就寝した俺は十二時間後に目覚めるはずだったのだが、部屋の外から響く騒音によって午前八時ごろに睡眠を妨害され起床を余儀なくされたのである。時に睡眠欲は人に殺意をも抱かせるものだ。ビバ睡眠、アイラブお布団。懸命に二度寝を試みてみたが、残念なことに、ごく普通の住宅街で育った俺は騒音の中ぐっすり眠るスキルなど習得していない。仕方なく起き出して、リビングに降りた。
「隣のあれ、何」
「あら、珍しいわね、テルがこんな時間に起きてくるなんて」
「うっさくて寝てらんね」
 頭をがしがしかいて、テーブルに置いてあったコーヒーをのむ。苦味が脳まで回ると、どうにか目が覚めてきた。
「なんか隣、引越ししてきたみたいよ。ほら、鈴木さんが引っ越していってからしばらく空き家だったでしょ」
「んー」
 鈴木さんなんて住んでたっけか。興味などひとかけらもないのでよく覚えていない。まあ、誰が引っ越していこうが越して来ようが、どちらも俺には関係のないことだ。
「あ、そうそう、お母さんたち今日はちょっと用事があるから、あんたお留守番よろしくね」
「あー」
 そういえば、俺以外の家族(つまり父親、母親、姉)は着替えて出かける支度をしている。おおかたどこかに買い物にでも行くのだろう。俺は全く興味がない(というか、母親や姉と一緒に買い物に行ったら荷物持ちにされるに決まっている。何でも買い込む母親や高飛車で散財好きな姉貴の荷物持ちなんざ死んでもごめんだ)ので、毎回留守番を決め込んでいる。もっとも、普段はこんな時間に起きていないので、自動的に留守を任されているだけなのだが。
「じゃあ、行ってくるから。お留守番よろしくねー」
「あー」
 おざなりに返事をして、置いてあった食パンを齧る。寝不足なせいか食欲がない。二度寝も出来ないので、面倒になって放り出したゲームでもクリアするかな、とソフトのタイトルをいくつか思い浮かべる。
 起きるのがすこし早いだけで、いつも通りの週末だ。


 呼び鈴が鳴ったのは十時ごろだった。
 居留守を決め込もうと思ったが、二度三度と鳴らされたので仕方なくゲームを中断し、外に出る。これだけしつこいなら、きっと宅配便かなにかだろう。昔は塗装屋がしつこく外壁の塗りなおしを勧めてきて辟易したものだったが、近頃は教育がいいのか、ここまでうるさくはない。
「はいはいー、新聞牛乳受信料はお断り、現金書留だけ受付中っすよ、っと」
 判子を持って裸足でドアを開けるが、予想に反して誰も居なかった。いたずらか? と思い戻ろうとすると、またチャイムが鳴った。誰か居るのは確実らしい。門のところまで降り、ひょいと覗き込む。
「…………」
 まだ小学校にも入学していなさそうな、ちいさなちいさな女の子、がそこには立っていた。すこし驚いたような顔で俺を見上げている。うお、そんなうるうるした目で見られてもお兄さん対処に困るぞ。
「……こ、こんにち、は」
「こんにちはぁー」
 おそるおそる声をかけてみると、元気のいい挨拶が返ってきた。少なくとも、こういうコミュニケーションに関してはきちんとしつけられた子供らしい。
 肩の下まで伸ばされた、やわらかそうな細い髪。黒目がちの瞳。俺の腰あたりまでしかなさそうな小さな体。ふわりと裾が広がるピンク色のジャンパースカート。砂糖菓子のように甘い声。なんだか二次元から抜け出してきたようなテンプレ通りの装備である。
 あまり三次元の子供と接する機会がないので平均的な幼女の容姿がよくわからないが、結構可愛い部類に入りそうだ。
「おにいちゃん、だれー?」
 首をかしげて訊ねられ、不覚にもどぎまぎする。え、嘘、俺、そういう趣味のヒトだっけ? いやいやまさか。そんなわけが。でもそれなら、この胸のときめきはなんなんだ。ん? ときめき? いやいや多分普段会うことのない人種相手でテンパりすぎてるだけだこれは。だって幼女だぞ幼女。幼い女の子とかいて幼女だぞ。いやそんなことはどうでもいいんだよ。やっぱり相当焦っている。
「えーと、……」
 近所にこのくらいの女の子がいるなんて話は聞いていないから、きっと迷子だろう。どこから来たの、と訊いて親を探してやるべきか。しかし特に子供好きでもお人よしでもない俺がどうしてそんなことをしなくてはならないのか。
 放っておこうか、という考えがちらりとよぎる。めんどくさいし。
「おなまえないのー?」
 背伸びをしながらせいいっぱい俺の目を見あげてくる。駄目だ、これ可愛い。自慢じゃないが結構治安の悪いこの地域に、こんな可愛くてちっちゃい子を一人でほったらかしたら確実に警察沙汰になる。家の中にあげてやろうか、と門を開けたところに、聞きなれない女性の声がした。
「あー、こらっ、みーうー! 何してるの!」
「あ、おかあさん!」
「もー、じっとしててって言ったでしょー」
 幼女はぱあっと顔を輝かせると、声のした方向へ走っていった。髪を後ろで束ねた、ジーンズと若葉色のシャツを着ている母親と思しき女性に抱きつく。固まっている俺に気づいたそのひとは、彼女と手を繋いで近づいてくると頭を下げた。
「すみません、うちの娘がご迷惑を」
「あ、い、いえ……あ、お隣に越してきた方ですか」
「はい。狗飼と申します。私はカズネ、これが娘の……ほら、お名前は?」
「いぬかいみうです!」
 にこにこしながら勢いよく手を挙げて名前を告げる姿が愛らしい。美しい雨、と書いてミウ、というんですよ、と教えてもらった。母親のほうは一つの音、と書いてカズネ、だそうだ。母娘揃って綺麗な名前だな、と思う。平凡な名前の我が家とは大違いだ。
「あー、えっと……俺は三宅輝久です。生憎と今、家の者は出かけておりまして、俺一人なんですが……」
「あら、そうなんですか。ご挨拶に行かなくちゃと思ってたんですけど。じゃあ、後日改めて伺いますね」
「あ、ハイ……」
「朝からうるさくてすみません。目を離すと美雨がすぐに遊びに行きたがるので、進まなくって」
 確かに小さな子供は引っ越しの荷物も運べないし、新しい土地に来たという興奮も手伝ってはしゃぎまわるだろう。そうだ、と思いついて、俺はずれてもいない眼鏡を直しながら申し出た。
「あの、俺暇なんで、よければ面倒見てましょうか」
「え? いえ、そんなご迷惑を……」
 俺にとっては引っ越しの騒音のほうがご迷惑です。
 などと本音を言わない程度の常識は一応備わっているので、とりあえず建前を並べた。ゲームも詰まっていたし、たかが数時間子守りをするだけで明日から安眠が確保できるなら安いものだ。
「いや、どうせすることないんで。荷物が早く片付いたほうが、娘さんもお母さんと遊べていいと思いますし。……俺と遊んでよっか。ね、美雨ちゃん」
「みうあそぶー! このおにーちゃんとあそぶー!」
 しゃがみこんで、おいで、と手を広げると、彼女は嬉しそうに笑って駆け寄ってきた。抱き上げると髪から甘い匂いがする。頬っぺたがやわらかくて、意外と重い。非力な文科系高校生の俺にはちょっとギリギリだ。でも、思っていたより悪くないかもしれない。
「じゃあ、申し訳ないんですけど、お願いしますね。五時あたりには片付くと思うので、その頃迎えに来ます」
「はい。じゃ、俺は家の中に居るんで、何かあったらいつでも呼んでください」
「すみません、お願いします。美雨も挨拶なさい。お兄さんに、よろしくおねがいします、は?」
「おにいちゃん、よろしくおねがいします!」
 俺の首に抱きつきながら、満面の笑顔で美雨は言った。
 それはうっかり恋に落ちてしまいそうなほどに可愛い、天使の笑顔だった。

 

 

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