ヒューマンホリック

 お豆腐を買って帰ったら、階段のところでおしどり夫婦と評判のヨシハラさん(奥さんのほう)と会いました。
「あら、こんにちは」
「お久しぶりです、ヨシハラさん。外に出ても大丈夫なんですか?」
「ええ。あの人、いまは眠ってるから」
 ヨシハラさんの旦那さんはヒューマンホリックの発症者なので、ヨシハラさんがつきっきりでいなくては死んでしまうのです。
 ヒューマンホリックとはヒト依存症候群という病気で、一昔前、原因不明の奇病として大流行し、結構な人死にがでました。ワタシたちの世代は既にワクチンができていまして、ワタシも予防接種を受けたクチですが、ヨシハラさんによれば既にそのころ旦那さんは発症済みだったのだそうです。ワクチンはあるが特効薬はない、発症してしまったらそれまで、という病気のため、現在の患者は四十代以上に限られています。
 ヒト依存症という名前の指すとおり、ヒューマンホリックに罹った人は、常に人がそばにいないと生きていけないカラダになります。初期症状は軽く、一人ぼっちの部屋にいると咳が出たり寒気がする程度なのですが、少しずつ進行していくにつれて動悸・息切れ・眩暈・呼吸困難などの症状があらわれ、末期であるステージXまで進行してしまうと五分目を離しただけで心肺停止、死に至ります。また、そばにいるなら誰でもいいというわけではなく、心理的な「さみしさ」を感じることも重症患者の死につながります。そのため初めは心因性の病だと言われていましたが、十年ほど前にドイツの学者が原因となったウイルスを発見したため、感染症であることが判明しました。ヨシハラさんの旦那さんは既にステージWで、ステージXまで移行するのも時間の問題らしいので、遠からず死んでしまうのだと思います。
 古くは作者未詳(鎌倉時代の暦学者、伸寅田武須の手によるものだとする説が今のところ最有力のようです)の日記文学、「千日日記」に「兎病にかかりたる妹のこと」という項があり、その記述内容から兎病とはヒューマンホリックのことではないか、という研究もされています。
「さて、と。お買い物してこようかしら」
「39マートで卵が安いですよ」
「あら、そうなの? でもいいわ。今日は遠くまで行くから」
「え? でもあまり遠くに行っていると、旦那さんが起きてしまわれるのでは?」
「ええ」
 ヨシハラさんはおっとりと微笑みながらうなずきました。
「それでいいのよ」
 言い終えるよりも一瞬早く、目覚まし時計が鳴っているのが聞こえてきました。音の出所はヨシハラさんの部屋のようです。
「うふふ。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 どちらのヨシハラさんも、それっきり帰ってきませんでした。



2008.7.9wed.u
2008.7.9wed.w

back / index