49.月見のこと



 


「恭介くんも炭酸なんか飲むんだねえ」
 コップの中のコーラをぐっと呷った俺に、めずらしい、と顔に書いた先輩がしみじみ言った。
 そろそろ十月も近いのに、いまだ夜の底には夏の名残りが澱んでじわじわと汗が出てくる。お茶と月見団子の代わりにコーラとスナック菓子を食べながら、俺とちゅー先輩は屋根の上から空を眺めた。暑い日に飲む炭酸は、泡のぶんだけ喉にすぐ馴染むような感じがして実際以上につめたい。ああ、夏の飲み物だな、と体が納得する。
「俺を何だと思ってるんすか」
「……若、人?」
「疑問符は余計です」
 軽く拳を握って、中指の骨でこつんと先輩の額を叩く。いたーい、とおおげさに騒ぐので、あいた口にコーンポタージュ味のスナックを三つまとめて突っ込み黙らせた。おとなしくもっくもっくと咀嚼する頬の膨らみ具合がなんだか小動物めいていて思わず笑ってしまう。ハムスターとかリスとかそういう頬袋があるタイプの生き物のようだ。ついでにサイズもそれくらいだったら酔って勝手なところで眠る先輩を布団に引きずっていく際の苦労も大幅に減るのに、と思ったが、じゃれついてくるのをうっかりぷちっと潰してしまいかねないからやはり今の中学生サイズがいいなと考えなおす。持ちあげるのがきついとはいえ成人男性の身長と体重だと考えると少々心配になる程度には軽いから、もうちょっと大きくなってもいいくらいだ。……そして、大人なんだから酔い潰れる前に自力で布団へ移動してくれるくらい中身も成長してくれれば尚更嬉しい。
 十五夜はもうとっくに過ぎたけれど、端の削れた月でも充分すぎるほどにきれいだ。夏の残滓にうるんだ空気と秋の気配を含む薄雲で輪郭がぼけて、淡い光が空の広い範囲ににじんでいる。
「月がきれいですね」
 ふと口をついて出た言葉に、先輩がくすくす笑った。ろくでもないからかい方してくる前触れだな、という予測通りのことを言う。
「夏目漱石?」
「……だとしたらどうするんですか」
 先輩の方から「恭介くん好き好き!」と言われるのはもうすっかり慣れたが、自分が男に愛を囁きたいかといえば答えはノー、断固拒否である。それとこれとは別だ。大体、先輩の「好き」はおいしいケーキや面白い漫画に向けるものと全く同質なのであって、ロマンスの神様が介入するような余地は一切無い。この人でしょうか、と聞くまでもなく明らかにこの人じゃない。男だし。
「困っちゃうなぁ。男にまでモテちゃうなんて」
 全く困っていなさそうな顔でぱちんとウィンクを寄越してくる。うげえ、と顔をしかめてみせると、調子に乗って投げキッスまでしてきた。毎度ながらイケメンの無駄遣いである。キスが着地したとおぼしき右肩を軽く払うと、ひどおいぃ、とあからさまな嘘泣きをしてみせた。頭を撫でて機嫌を取るとすぐにけろりと復活する。いちいち対応するのは面倒くさいが、ひとつひとつのコマンドと結果が単純なのは先輩のいいところだ。はい、と差し出されたスナックを口で受け取って、はいどうも、と軽く頭を下げる。
「ま、おれは二葉亭四迷派だから、そういう遠回しなのじゃちょっとね」
「二葉亭四迷、ですか」
 そういえば夏目漱石の「月がきれいですね」と同じくらい有名な「I love you.」の和訳があったな。確か見たことはあったと思うが、ド忘れして出てこない。あー、なんだったかな。夏目漱石のやつよりは、こう、なんというか、直接的、だった、ような、あー、駄目だ出てこない。先輩に訊くのはなんとなく癪だからあとで調べることにしよう。
「昔の人ってやたら言いまわしがおしゃれだよねえ」
「はあ、たとえば」
「んんー。思いつかないけど」
「なんですかそれ」
 とっさに出てこないんだよお、と笑って先輩は飲み干したコップを向けてきた。はいはい、とコーラを注いでやりながら、なんだか従弟の世話をしているようだなと苦笑する。まったく、今日も見事なまでに子供っぽい。普段の酔っぱらっている先輩を相手にするよりは楽だし手がかからないから別に構わないけれど。
「手ェどしたの?」
 言われてコーラのボトルを持った手に目をやる。そういえば手の甲を擦りむいているのだった。広範囲だが、傷はかなり浅いので忘れていた。カート持ちあげたときに擦っただけですよ、と答える。
「カート?」
「近所のおばあちゃんがカートの車輪を側溝に取られて困ってたんで、持ちあげた時に反動でこう、ブロック塀にザッと」
「うええ痛そ。でもえらいねえ」
「普通です」
「えらいよ」
 ふっと口元だけで笑って先輩が俺を見つめた。いつものように子供っぽく顔中で笑っているわけではないからか、年齢相応だしきれいな顔だ、というのがよくわかる。いくら見慣れた先輩の顔とはいえ、整った造作であまり見つめ続けられるとどうにも落ち着かなくなってくるのでやめて欲しい。
「なに見てんすか」
「君の目に映る星に見とれてた」
 少女漫画の世界へお帰りください、イケメンの無駄遣いはやめろと言ってるじゃないですか、つーか今日はお月見に来たんだから月見なさい月を、そもそも今日曇ってるから映そうにも星が見えてないですけど、とツッコミのセリフの候補がありすぎて逆にどれを言えばいいのかわからなくなった。
「……今のはちょっと違うね。おしゃれっていうか、ハリウッド?」
 その一言で、ようやく先程までの話題を引き継いでいるのだと気がついた。同時にぶわっと背中が汗をかく。いま、完全に、自分に向かって言われたと思っていた。アホか俺は。んなわけあるか。なんかそれらしいセリフを返してノッたらよかっただろうが。ああああなんだか無性に恥ずかしい。先輩にツッコまれる前に話題を逸らそう。何か、なんでもいいから言わなくては。
「っあー、そういうのとはちょっと路線が違いますけど、desireの原義が『星が持ってくるものを待つ』っていうの知ったときはあーそれきれいだなーって思いました」
「へえ。星が持ってくるものを待つ、かあ。星に願いを、って感じなのかな」
 どうやら成功したようだ、と内心ほっとして相槌を打つ。
「ですかね」
「言葉の意味からして、あんまりいいお願いはかけられてなさそうだけど」
「まあ、そうですけど」
 これを教えてもらったときの会話をおぼろげに思い出した。たしか相沢と「星が持ってくるもの」とはなんなのか、について話した気がする(そして相沢はパニック系のSF映画みたいな答えを寄越してきたような)。(多分)文系の先輩ならロマンのある答えをくれるだろうと期待して、先輩は何だと思いますかと訊くと「んー?」と首をかしげた。
「そうだねえ。滅び、とか?」
「……随分ですね」
「あはは。昨日隕石落ちる映画見たからさー」
 コーラを飲みながら微笑む先輩の表情に違和感を覚えた。具体的に何がどうとは言えないものの、確実にどこかがおかしい。でも言葉にできない以上、本人に訊いて確かめることもできない(というか、何を訊けばいいのかすらわからない)。目をふわりと細めて、何か言いかけてやめるようなかたちで軽く唇を結ぶ、どこにもおかしいところなどないきれいで穏やかな笑い方なのに、なぜこんなにも気になるのだろう。表情としてはさっきの笑い方とよく似ているのに印象が全然違う。いつもと逆の腕に時計をしているような気持ち悪さが解決できないまま、俺も曖昧に笑い返す。
「そういや恭介くんと映画見たことないね。今度なんか見る?」
「人類が滅びるようなやつですか」
「やー、普通の。なんかバーン、ギャー、おもしろーい、みたいなの見ようよ。どうせ人類滅びないんだし」
「はあ……」
 なんだそれは。
 映画あんまり詳しくないので任せます、と答えると「任された!」とにっこりした。
 いつも通り子供っぽいくしゃくしゃの笑顔だったけれど、さっき感じたぼんやりとした不安のようなものは、どこかにまだまとわりついているような気がした。


Fin


20120819sun.u
20120819sun.w

 

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