03.雨の日のこと



 

 今日は冬らしく冷たい雨が降っている。昔から雨の日のほうが好きだった。変な子供だ、と、今の俺なら思う。といっても外で遊ぶのが嫌いだった訳ではなく、ただ単純に、雨が降るとわくわくしたのだ。昼間なのに暗かったり、いつもなら聞こえる下校放送が雨音のせいでにぶくぶれていたり、という非日常感。停電ではしゃぐ子供のもうちょっと安いバージョン、といったところか。
 小学校の頃使っていたのは、学校指定の黄色い傘だった。今使っている傘とは似ても似つかない、プラスティックの安い骨組みとてらてら光る色合い。子供を目立たせるという目的からすれば仕方なかったのだろうが、俺はその色が大嫌いだった。雨の静謐さをがちゃがちゃひっかきまわすうるさい色だ、と思っていた。よく落としていたせいで柄の部分がけばだち、手触りが悪いのも気に入らない理由だった。
 去年買った、グレーを一滴垂らしたように曇ったうす水色の傘は、あの黄色い傘とは違って雨の日によく似合う。大きく広がって荷物を濡らさないところも、ドイツ製だという頑丈でシンプルな骨組みも、手になじむ黒い柄の部分も気に入っている。生まれてからこのかた日本を出たことなど一度たりともないが、多分俺はドイツという国と相性がいいと思う。このシンプルさが性に合うのだ。機能美という言葉のよく似合うものたちを作る国。
 水溜りを避けるのに苦心して歩いているうちに、肺に入ってくる空気がだんだんとあたたかく、そして様々なにおいがまじりあうようになってきた。そろそろ駅に着くようだ。まったく、休みの日にまで迷惑な人だ、と畳んだままの傘を見て苦笑する。
「あ、恭介くん!」
「はいはい」
 嬉しそうに手を振るのは紛れもなくちゅー先輩だ。学ランを着ていたらどう見ても中学生にまぎれてしまうような小さい体をめいいっぱいにのばして、こっちこっち、と合図を送ってくる。ちゃんと見えてますから、そういう恥ずかしいことはやめてください。いつも言おうとして、やめてしまう。どうしてだかはよくわからない。
 急に雨が降ってきて帰れない、と、いきなり電話がかかってきたのは三十分前のことだ。
――で、迎えに来いと?
――蛇の目でお迎えしてほっしーな!
――俺は先輩のお母さんじゃないんですけど、ねえ。
 結局、傘を持っていく代わりにファミレスで飯を奢ってもらうことになったのだけれど、それにしたって俺が迎えに行く理由はない気がする。俺はもしかして保護者と間違われているのだろうか。なんてことだ。こんな面倒な息子を持った覚えはない。
「ご飯どこ行く?」
「サイゼでいいです、ちゅー先輩お金ないから」
「知ってるなら奢らせないで……」
 渡したオレンジの傘を開きながら、先輩は困ったように眉尻を下げて笑った。自称苦学生のちゅー先輩に、親元でぬくぬく生活している高校生の俺がたかるのもどうなのか、と一瞬迷ったが、すぐにこの人が普段俺にかけている迷惑の数々を思い出した。たまにはリターンがないと割に合わない。
「俺はギヴ・アンド・テイクはきっちりしたいタイプなんで」
「うー。まーいっかなー、タクシーで帰るよりは安いし」
「そうですよ。大体こんな雨の日に呼び出されて何の収穫もなく帰るなんて嫌です」
「おれという収穫があるよ?」
「ちゅー先輩は収穫になりえません」
「ひっどいなあ恭介くん! こう、先輩をもっと敬って! 讃えて! そして愛して! ラブアンドピース!」
 なんだこのひとりミュージカルは。心持ち距離をとって、俺は無理無理、と手を振った。
「嫌ですよ。後半意味不明ですし」
「……恭介くんのばか……」
「ちゅー先輩テンション高すぎてついてけないだけです」
 はいはーい、とすこし拗ねたように返事をして、先輩はスキップをするように俺の二、三歩先を歩き始めた。ぴょこぴょこと跳ねるたびに、傘が揺れる。水溜りも構わずにつっこんでいくので、ジーンズの裾の色が変わってしまっている。俺はああいう濡れ方が気持ち悪くて駄目なのだけれど、先輩はまったく気にしていないようだ。外見どころか行動まで中学生、いや小学生か。元気な人だ、と半ば呆れつつ後ろから見ていると、今度は「あめあめふれふれかあさんがー」と歌までうたいだした。……小学生め。
「蛇の目でお迎えうっれしーいなー」
「嬉しいですか」
「めっちゃめちゃうれしい!」
 勢いよく先輩が振り返った。予想外の満面の笑みに、面食らってはあそうですか、としかいえない。
「おれねー、ずっと憧れだったんだよ雨の日お迎えしてもらうの! だから今日恭介くんにダメモトで電話してみたらほんとに迎えに来てくれちゃってもーおれマジしあわせ!」
「……はあ」
 そんなに喜ばれているとは知らなかった。傘を持っていくくらいのことでこんなに幸せそうにする人も珍しい。俺はひとりで傘をさして楽しく帰るのが好きだったので(むしろ親と一緒だと早く歩けと怒られたりするので嫌だったくらいだ)、先輩のいうことはよくわからない。
「ねえねえ恭介くん」
「なんですか」
「また雨降ったらお迎え来てくれる?」
 いつのまにやら俺のすぐそばまで戻ってきていた先輩が、顔を覗き込むように訊いてくる。口角をきゅっとあげた、雑誌のモデルみたいな笑い方。男のくせにそういう表情が似合うのはその童顔かつ割りと整った顔立ちのおかげなのだろう、きっと。
「……まあ、先輩が傘持ってなくて、なおかつ俺が暇なら行きますよ」
「ほんと!?」
 ぱっと顔を輝かせた先輩の表情に、あ、と思った。降水確率が何パーセントでも、家を出るときに降ってさえいなければ傘を持たずに歩き回る気なのだ、この人は。
「ファミレスで奢ってくれるなら、ですけど」
「いいよいいよ! やったあもう恭介くん大好き!」
「はいはいありがとうございます」
 ファミレスで何食べよっかなー、アイス食べたいなー、などと楽しげにはしゃぎながらスキップする先輩のあとを、肩をすくめて追いかける。先輩のあまりの浮かれっぷりに、思わずすこし笑いながら。
 こんなに喜ばれるなら、呼び出されるのも悪くない、はずだ。


Fin


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