09.古典の授業のこと



 

 古典の時間は皆にとって昼寝の時間らしいけれど、俺は結構好きだ。特に古文よりも漢文派である。漢文の硬くて美しい響きを口ずさむと、とても心がしんとするのだ。だから毎回きちんと起きておじいちゃん先生(まだ定年までは数年あるらしいけれど、どうみたっておじいちゃんとしか呼びようのない外見だ。恐るべきことには、俺とかなり年の離れた従兄がこの高校を卒業したときも「まだ定年までは数年ある」おじいちゃんだったらしい)の声を聞く。授業はうまくない、というかはっきり言って下手だが、耳に馴染んでしっくりと落ち着く穏やかな声は嫌いじゃない。国語は得意科目なので、教師が良かろうが悪かろうが俺にとっては大した問題ではないのである。
「ええ、では、ここの文法的説明を、ええ、辻」
「はい」
 指されて、教科書に書き込んだ通りの説明を読むとおじいちゃん先生はうなずいてもう一度黒板に向き直る。予習復習をきっちりしているのは俺くらいのものだ、と知っているのである。おじいちゃん先生がそれをどう思っているのかは知らない。
「ええ、再読文字は入試においても、ええ、頻出であるし、漢文を読む上で、ええ、重要なものであるから、一年のうちに確認しておくように。ええ、期末試験にも出します」
 ええ、ええ、と相槌のような口癖をはさみながら、おじいちゃん先生の授業は続く。問いかけても答える人はいないから、自分でうなずいて確認しているのだろう。
 聞く人のほとんどいない授業は、クラスメイトたちの耳にはねかえされてもわもわと教室にこもる。唯一話を聞いている俺も既に覚えてしまったので、実質的には無駄な時間だ。
 しゅんしょういっこくあたいせんきん。おじいちゃん先生が平坦なイントネーションで漢文を読む。俺も目と指先で白文を追い、唇だけで呟いた。春宵一刻値千金。春宵といえば、春の夜に見あげる星は生き物めいて神秘的だ。確かに、千金にも値する美しさかもしれない。俺は冬の星空が一番好きだが、春だって嫌いじゃない。あちこちで濃さを増す植物の緑、繁殖の季節を間近に密度を増す動物の息づかい。そういうものものにひきずられて、星までもどこか生気がみなぎっているように見える。
「辻、なんかおまえ酒くさくない?」
 隣の席で眠っていた相沢が、机に伏せたままごろりと首だけをこちらに向けて言った。袖を嗅いでみるが、よくわからない。もう麻痺してしまっているのか、とも思ったが、教師に注意されていないということは近づかなければわからない程度なのだろう。勿論自分で飲んだわけではない。ちゅー先輩だ。そういえば今日、泊まっていたちゅー先輩に後ろからぎゅうぎゅう抱きしめられたっけ。酒のにおいうつるからやめてください、といっても、「おみおくりー」と寝ぼけた声が返ってくるだけだったので諦めた。
「あ? あー、うん、従兄が帰ってきたから」
 ちゅー先輩のことは説明が面倒なので周りには従兄だと言っている。OBOG会で出会った先輩ととても仲良く付き合っている、というのは自分で思っていたよりも特殊な状況らしく、理解されづらいのである。直接の先輩でもないし、文化部だから運動部と違ってそこまでつながりが強くない、と思われがちなのだ。
「ああ、あの酒乱のヒト?」
「そうそう」
 いいよなあ、と相沢は笑った。いいのかなあ、と俺もすこし笑う。
「おもしろそうじゃん、辻の話聞いてると」
「そうか?」
「男なのが勿体ねーよな、女の子だったら超かわいくね?」
「……何が?」
「俺だったら酒に酔っ払って『好美くーん』なんて甘えてこられたら即刻陥落するわ。顔もいいんだろ?」
「まあな。紹介してやろうか」
「女の子だったらよろしく頼みたかったさ」
 言外に拒否して、相沢は再び眠りについた。うそつけ、お前女の子に不自由してないじゃねえか。顔面偏差値をつけたら確実に六十五はつくくらい整った顔に、気さくで喋りやすい性格、しかも文武両道などという少女漫画の王子様的要素が揃い踏みなのだから当然といえば当然だが。
 現実の側に残された俺は、窓の外をながめながらぼんやりとちゅー先輩のことを考える。
 ちゅー先輩が女の子だったら、何か変わったのだろうか。ちゅー先輩の行動がかわいく甘えてくる彼女のもの、に思えたり、どきどきしたり好きになったり陥落したりする、のだろうか。
(……いや、ちゅー先輩だしな……)
 首を振ってひっそりと笑う。わがままで気分屋で俺の話をあまりきかない迷惑な人。アポなしで勝手に押しかけては遊ぼう遊ぼうと騒いだり、持ち込んだ酒を勝手に飲んで勝手に酔いつぶれたり、四歳年下の俺に甘えることをなんとも思っていない。それがちゅー先輩だ。性別が男だろうが女だろうが、ちゅー先輩がちゅー先輩であるかぎり、きっと何も変わらない。
 だからちゅー先輩はこのままでいい。女の子だったとしたら家に頻繁に泊める訳にもいかないだろうし。
 年上なのに気を遣う必要のないちゅー先輩との付き合いは、これはこれで悪くない。


Fin


20080311tue.u
20071214fri(20080311tue加筆).w

 

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