12.食事会のこと



 

 月に一度、藤見さんと食事をすることになっている。おれが藤見さんからの経済的援助を断ったとき、かわりにそう約束したのだ。そうでもしないときみはいつ死んでいるかもわかりませんからね、と笑った藤見さんの声は、表情に反して意外と真剣だった。まあ、おれの生活力の無さをずっと見続けているのだし、そう心配するのも仕方のないことだとは思う。
 今年の八月三日でおれは二十一歳になる。だから、おれと藤見さんの食事会は次で六十回の大台に乗る。
「ごちそうさまでしたー」
「いいえ」
 食事の間、おれと藤見さんはほとんど無言のままだ。向かい合わせだとなんとなく言葉を交わしづらいのである。本番はむしろ食事が終わって車に乗ってからだ。藤見さんが運転席、おれが後ろのシート、という顔の見えない位置に座ることで、ようやくおれたちはきちんと話すことができるようになる。いつも一時間か二時間ほど、どこへ行くでもなく車を走らせながら、互いに目を合わせることなくぽつぽつ喋る、というのがお決まりのコースになっている。
「学校の方は変わりありませんか」
「あー、ハイ、変わりないです。……変わりなさすぎて、来月からもまた二年生ですよ」
 冗談めかせて言うと、朗らかな笑い声が返ってきた。ほっとしておれも笑いながらシートに体を沈める。藤見さんのことだからまた「それじゃあその一年分の学費は負担しましょう」なんて言い出すんじゃないかと思っていた。おれが五歳の時から知っているから、もう半分くらいは親代わりの気分なのかもしれない。もしも藤見さんがおれの親だったら、おれはこんなふうにはならなかっただろうけれど。
 ハンドルを握る藤見さんの手には年齢に相応しいしわが刻まれていて、動かすたびに変わる模様のようなそれを見ていると飽きない。手は人体の中でも特に好きなパーツだ。なんといっても手はいろんなことをしてくれる。お酒を注いでくれたりマッサージをしてくれたり頭を撫でてくれたり。おれはおれのために何かをしてくれるもの(もしくは人)がとても好きだ。
 話題が途切れて、車内にゆるく作ったゼリーみたいな手触りの沈黙がぬるりと満ちた。すこしずつ息がしづらく、苦しくなっていく。行き場を失った言葉に中から押されて、おれと藤見さんはゆるやかに窒息していく。窓を指二本分だけ開けて夜風を入れた。朝から降っていた雨のせいか、空気は春らしくない寒さだったけれど、とにもかくにもぐっと呼吸が楽になる。それだけで充分すぎるほどだ。
「……そういえば、今日は雨でしたが、彼とは会ったんですか」
「彼?」
 急すぎるボールを受け損ねて、思わず妙な声を出す。おれの素っ頓狂な声が面白かったのか、ちいさくくっくっと笑いながら「よく話してくれるじゃないですか」と付け足した。
「なんでしたっけ、後輩の子」
「あー、恭介くん。会ってないですよ、ずっと家にいました」
 出先でおれが傘を持っていないのに雨が降り出して、なおかつ恭介の気が向いたら迎えに来てくれる、という約束をしたと先月話した(自分のことでもないのに、そんな些細なことを律儀に覚えている藤見さんはすごい)。いまの質問はたぶんそれのことだろう。
 本当は雨を口実に呼び出そうかと思ったのだけれど、朝から降っていたから「雨が降ってる中、傘も持たずに出かけたのは先輩じゃないですか。自業自得ですよ」なんて断られる気がしてやめた。恭介は優しくていい子だが、理屈に合わないことをしないという信念がある。そういう類いの律儀さや潔癖さはおれにはないものなので、とてもまぶしく感じるし、好ましく思う。おれはおれにないものを持っている人が好きなのだ。
「おれ、そんなに恭介くんの話ばっかりしてます?」
「いいえ、そこまでは。でも、同じ名前がこんなに長い期間途切れずきみの話に出てくるなんて、珍しくはありますね」
「そうです、か、ねえ」
 前髪をなぶる夜気の塊に目を細めて、窓の外を見た。知らない街の知らない店の知らない店名をアピールするネオンが長く尾をひいて次々に流れていく。地上すれすれを平行に飛んでいく流れ星みたいだ。いろんな人の願いを乗せている(お願いの内容が、なるべくたくさんの人の目にとまって客が増えますように! という一択であるところは星と違うが)ところも同じだし。
「ちょっと横になっていいですか」
「どうぞ。酔ってしまいましたか?」
「いや、ちょっと、違います、えーと」
 何と答えるべきか迷って、結局「変な角度から夜景を見たいんです」と素直に言った。ああそういうことでしたか、とうなずく藤見さんの首筋には善良に生きてきた時間そのもののようにまっすぐなしわがきざまれている。年齢相応に老けていく姿というのはとても美しくて大好きだ。靴を脱ぎ、ごろりとシートに寝転んだ。まばゆい光の流れを眺めながら、ぼんやりと恭介のことを考える。
 恭介はいい子だ。こんなわけのわからない先輩のわがままをきいてくれるし、なんだかんだ言いながら結局のところは面倒見がいい。面倒なことが嫌いなんですよ、と言うわりには、面倒以外の何物でもないはずのおれとの付き合いをそれなりに大事にしてくれている。撫で方もうまいし、構って欲しいときに構ってくれるし、なにより、恭介は約束を破らない。これはとても大事なことだ。
 自分は平気で忘れるくせに、おれは約束を破られるのがなによりも嫌いだ。ひどい性格をしているなあ、という自覚は、いちおうある。
「藤見さん」
「はい」
「……帰りたい」
「どちらへ?」
「どこでもいいです」
「わかりました」
 これはおれと藤見さんの間でだけ通じる言い方で、どこでもいい、というのは、いつもより余計に時間をかけて帰りたい、という意味だ。こう言うと、大抵日付が変わるまでぐるぐるドライブをしたあと、家の近くの漫画喫茶や二十四時間営業のファミレスで降ろしてくれる。
 帰りたくても、おれの家なんてどこにもない。借りているアパートの部屋は「おれの暮らしているところ」であって、「おれの家」では、ない。
「すこし時間がかかりますから、寝ていても構いませんよ」
「はあい」
 子供みたい、といつも恭介に笑われる声で返事をして、ぎゅっと目を瞑る。カラフルなネオンの流れ星が残像になってふわりと瞼の裏に残っている。それが消えてしまう前に心の中で三回ばかみたいなお願い事を唱えてから、眠りに沈み込んだ。


Fin


20080323sun.u
20080323sun.w

 

back / top / next