16.偶然のこと



 

 思い出そうとしなくても、指が勝手に恭介の携帯の番号を押せるようになった。たびたび恭介を理不尽に呼び出している、という恭介にとってとてもありがたくない事実がよくわかる。
「もしもし恭介くん?」
『はい、俺ですが』
 いつも通りのだるそうな声で、恭介が答えた。雨が降っているせいか、公衆電話(駅構内に電話ボックスがあるなんてほとんど奇跡的なことだ、と使うたびに思う。携帯電話の普及は、同時に持たない人間を不便な生活に追い込むことでもある)の向こう側の声はさりさりと細かいノイズにうすくさえぎられて遠い。
「おれ、今日傘ないんだよね。三十分後くらいに模山駅つくから迎えにきてよー、待てってゆーなら待つからさー」
『それが残念なことに、俺も傘がないんですよね』
「あれ? 今家じゃないの?」
 恭介が出かけているなんて珍しい。そりゃあ今日は土曜日だし、千鳥ヶ崎高校の天文部が休日に活動するはずもないので、どこかに遊びに行っていてもまったく不思議はないといえばそれまでだけれど。
 いつ電話しても部屋で小説を読んでいるから、てっきり今日もそうなのだと思っていた。恭介が遊びに行く場所。……想像もつかない。カラオケ? いやいや。ゲーセン? いやいやいや。駄目だ、なんだか将棋会館とかに行ってお年寄りとパチパチやってる光景しか浮かばない。盆栽も似合いそうだなあ。
「えーなんだよーじゃあどこいんのー?」
 電話ボックスのドアを叩かれた。なんだよ、と振り向いてみると、見慣れた長身が小豆色のガラス越しにおれの顔を覗き込んでいる。にやっと笑って、携帯を耳にあてたまま恭介が電話ボックスの引き戸を開けた。
「『ここですよ』」
 肉声と受話器の両方から恭介の声が聞こえる。なんだかすごく新鮮な感じがして、とりあえずおれはへらりと笑った。
「あらま。コンニチハ」
「はい、こんにちは」
「よくわかったね?」
「今時電話ボックス使ってる人なんて珍しい、と思って見たら、なんか見覚えのある後姿だったので」
 今おれと恭介がいるのは最寄り駅ではなく、その五駅先のターミナル駅である。こんなところで会うなんて偶然もいいところだ。
 テレホンカードがもったいない(残り度数があとひとケタしかない)のでとりあえず受話器を戻す。名画の印刷されたテレホンカードが甲高い電子音とともに吐き出されてくると、恭介が眉をあげた。
「マネですか。いいですね」
「なにが?」
「そのテレカですよ。……知らないで使ってたんですか?」
「うん」
 へえ、そうか、マネかー。マネって何? マネ、マネ……真似? 模写? それとも絵のタイトル?
 芸術にからきし疎いおれが思いっきり首をひねっていると、察してくれたのか恭介がカードの左下を指した。しげしげ眺めたりしないから気づかなかったけれど、ちいさな文字でタイトルと画家の名前らしきものが書いてある。
「絵のタイトルはアンリ・ロシュフォールの逃亡。マネってのはこれを描いた画家の名前です」
「モネじゃないの?」
「それは別人。俺はどっちも好きですけど。……あ、ちょっと待ってください」
 肩にかけていたトートバッグからアッシュグレイの手帳を取り出し、開いてみせてくれる。中はすべてクリアポケットになっていて、タッチも色合いもさまざまなポストカードがきっちりと収められていた。ポストカード帳を持ち歩く高校生(しかも男子)なんて見たことない。
「こっちがクロード・モネの絵、こっちがエドゥアール・マネです」
「へえ」
 モネ、と示されたのは水色の空と白い建物(教会とか聖堂とかたぶんそんなの)が描かれた淡い色合いの絵だった。黒い帽子と服を着た、きれいな女の人の絵がマネ。なるほど、と思った。名前はややこしいけれど、絵は似ていない。でもどっちもきれいだ。芸術と名のつくものに興味のないおれでも、いいなあ、と素直に思う。
「きれいだね」
「でしょう。ドガとかもきれいでいいですよ。今日行った美術館で何枚かポストカード買ったんですが、そういえばそのマネの絵はなかったな。その絵すごく好きなのになかなか見つからないんですよ」
「あ、美術館行ってたの?」
「まあ、はい。上野の方にいいプラネタリウムがあるって聞いたんでちょっと寄って、そのついでに」
「……上野って東京の上野だよね?」
「そうですよ」
「デート?」
「俺にそんな相手いると思いますか」
 いてもおかしくはないと思うけど、恭介は恋愛とか興味なさそうだしなあ。何より、めんどくさい、とか言いそう。ぶんぶん首を振って否定しても、恭介は怒るでもなく肩をすくめて「だいたい、ひとりで見に行く方が気楽じゃないですか」とものすごく社交性のないことをまじめな顔で言った。おれはやっぱり恭介の将来が心配である。こんなに人付き合いしない子で大丈夫なんだろうか。
 おれたちの最寄り駅であるJR模山駅から上野まではざっと計算しても二時間以上かかる。ひとりでわざわざ往復四時間かけてつくりものの星と絵を見に行くというその発想がおれには理解できない。おれが恭介と同じ年のころは、たしかカラオケとかゲーセンとかに通ってクラスメイトや部活の野郎どもで毎日バカ騒ぎしていた。もしかしておれと恭介は人種自体が違うんじゃないだろうか、と真剣に思った。
「……恭介くんはつくづく男子高校生っぽくないよね」
「大学生っぽくない人に言われたくないですが」
 さして気分を害したふうでもなく、恭介はおれの頭をわしゃっと撫でた。おれが何も言わないのに頭を撫でてくれるなんて珍しいこともあるものだ。優しいなあ、恭介。にこにこしながらつむじのあたりを掌にすりつけて、もっと、と意思表示をする。どっちが年上なんだか、と苦笑交じりにぼやいた声は聞こえなかったことにした。おれは甘やかされるのが大好きなのだ。甘やかしてくれるなら年上だろうが年下だろうが関係ない。もらえるものはもらっとくべきだ。
「あ、恭介くん、このテレカあげるよ」
 唐突に思いついて、財布にしまうタイミングを逃してずっと手に持っていたテレホンカードを差し出した。モネ、じゃなくて、マネが描いた絵。種類の豊富な青で描かれた、てのひらサイズの四角い海。いつも使っていたのに、どうしてこんなにきれいなものに気づかなかったのだろう。
「いいんですか?」
「いいよー、残り度数少ないし、機械にあげちゃうのも勿体ないから」
「んー……じゃあ、遠慮なく。ありがとうございます」
 律儀に頭を下げて、恭介がテレホンカードを受け取った。気まぐれな優しさにも、ちゃんとお礼を言ってくれる恭介はとてもいい子だ。こんなちいさなカードだけじゃ割に合わないくらい迷惑をかけられているだろうに。
「夕方にはあがるらしいんで、そこらへんの店で雨宿りしませんか」
「いいよー。どこ行く?」
「駅の近くにいい喫茶店出来たらしいんで、そこ行きません? 一度行ってみたかったんですけど、わざわざコーヒー飲むためだけに電車乗りたくないよなーってずっと機会逃してたんですよ」
「いいけどあんま高いお店だと困るよ財布の中身的に」
「そんな高かないと思いますが、テレカのお礼に奢ります」
「まじで?」
「まじで」
 ありがと、とにこにこ笑うと、現金ですねと恭介も笑ってくれた。おれが現金な性格をしているのは昔から、恭介と会うよりずっと前からのことだ。原因は祖母だ。昔、頭を撫でられるのを恥ずかしがって逃げていたちっちゃい頃のおれに、ニコニコしながら祖母が「もらえるものはもらっといたほうがいいのよ」と繰り返し言っていたのである。おかげでおれの座右の銘はそれになった。それにしても、謹厳居士の四文字がよくにあう祖父としたたかでお茶目な祖母の組み合わせはちょっとしたミステリーだと思う。
「でも現金な性格じゃなくなったらおれじゃないと思わない?」
「まあ、そうですね」
「そしてそんなおれのことが結構好きじゃない?」
「はいはい」
「ノリ悪いなー」
「すみません」
 何でもかんでも好き好き言っちゃうおれと違って、恭介は「好きじゃない」とか「嫌いじゃない」とか、すこし煮え切らない表現をする。この半年ちょっとの、それなりに短いとはいえない付き合いの中でも、恭介が「これが好きだ」とはっきり言ったのをほとんど聞いたことがない。ぱっと見はちょっと怖いけど本当はやさしい子だから、考えて慎重に言葉を選ぶクセがついているのかもしれない。そのせいなのだろうか、最初の頃はやたら口数が少なかった。いや、酔っ払って絡むおれに閉口していたのか。そっちだな。絶対そっちだ。
 ふと、野良猫っぽいな、と思った。よく道端で会うのにこっちに寄ってきてくれずに逃げられてばっかりだったのが、だんだん警戒しなくなって普通にさわらせてくれるようになってきた、そんな感じ。猫のかわいらしいイメージと恭介があまりにもミスマッチで、自分で思いついたくせにうっかり笑ってしまう。
「……なんすか」
「いやいやなんでもないよ?」
 なんでもないようには見えない、と不審そうに首を傾げる恭介に、「早く喫茶店行こー、あ、ケーキセットつけてね」なんて適当なことをいって誤魔化した。納得していない顔をしつつも誤魔化されてくれた恭介が先に立って歩き出す。
 いつかは喉を鳴らすくらいおれに慣れる日がくるのかな、なんて想像して、恭介に見えないようにまたこっそり笑った。


Fin


20080420sun.u
20080420sun.w

 

back / top / next