17.伸びた爪のこと



 

「ちゅー先輩、爪伸びすぎじゃないですか?」
 恭介のながめている図鑑(春夏の星座がくわしく載ってる、フルカラーの重くて高価そうなやつ)を勝手にめくろうと後ろから手を伸ばしたら、そんなことを言われた。そういえば最近切ってないかもしれない。
「そうかなー」
「そうですよ」
 図鑑を脇に置いて、おれの手をとった。いやん積極的、とふざけると、ものすごくいやそうな顔をされる。ひどいなあ、ちょっとした冗談なのに。恭介はあんまりカタいわけじゃないけど、こういう冗談はわりと本気でいやがる。男に迫られた苦い経験でもあるんだろうか、と半分冗談半分本気で思っていたけれど、たまに喋ってくれる恋愛遍歴からするとどうも恋だの愛だのというもの自体が好きじゃないみたいだ。そのわりに本棚には江國香織や吉本ばななが並んでいる、というのが恭介らしい矛盾の仕方で、その恋愛小説ゾーンが視界に入るたびくすくす笑ってしまう。
「あんまり伸びると割れて痛い思いしますよ」
「んー」
「ひどい食生活してそうですし」
「否定はしないよ」
 悪びれずにそう答えたら、呆れ顔で溜め息をついてから、ちょっと待っててくださいと恭介が立ち上がった。本棚の下のほうについている小さな抽斗から、掌より少し大きいくらいの救急箱が出てくる。なんでもあるんだな、ここ。食事のとき以外はほとんどこの離れにいるんだから、当たり前といえば当たり前なんだろうけれど。
「手、貸してください」
「いいけどちゃんと返してね」
「小学生かアンタ」
 恭介が箱から取り出したのは、爪切りではなく鈍い銀色のやすりだった。ていねいに、角が出来ないよう微妙に角度を変えながら、黙々と爪をやすりはじめる。
「切るよりこっちのが爪にいいんですよ」
「へー、恭介くん物知りー」
「そうでもないです」
「でもこれめんどくない?」
 言外につまんないから恭介となんかして遊びたいなあ、という不満をこめて言ってみたけれど、まったくそれに気づいてくれない恭介はあっさり首を振った。
「単純作業は嫌いじゃないです。それに、どうせやることないじゃないですか」
 まったくもってそのとおりなので、おれは黙って爪を削ってもらうことにする。だいたい野郎二人きり、しかもテレビもゲームもない部屋で一体なにをして遊ぶというのか。慣れた手つきでやすりを扱う恭介によって、伸びすぎていたおれの爪がみるみるうちに短く丸く揃えられていく。なんだか魔法みたいだ。行ったことないけど、ネイルサロンってこんなかんじなのかな。
 一所懸命、誠心誠意、という四字熟語がエフェクトとして背後に浮かびそうなくらいまじめな顔で、恭介はおれの爪の手入れをしている。伏せた目、かすかに眉間によったしわ。熱中するあまりか、くちびるがうっすらと開いている。プラモデルのパーツかなにかになった気分だ。
 なんだか無性にうれしくなってにこにこしていたら、右手の分が終わったらしく恭介が顔を上げた。「何笑ってんすか」と不思議そうに首をかしげる。
「んー。いやー、いいね、こういうの」
 めんどうな作業をわざわざしてもらっている、というのはなかなか気分がいい。それだけ大事にされて、甘やかされている気分になる。おれは日々人の善意と厚意にべったり甘えて暮らしているので、甘やかしてくれる人は無条件で好きだ。成人男性の言うことではないよなあと自分でも思うのだけれど、この年齢にそぐわない外見のおかげなのか未だにそんなクラゲのような生き方が許されているので、まあいいや、とふわふわ生きている。
「あれだね、髪切りにいったとき頭洗ってもらうじゃん、あの気持ちよさと一緒」
「はあ、そうすか」
 いまいち納得していない顔で左手をとって、またやすりをかけはじめた。手持ち無沙汰なので、済んだ右手をしげしげ眺めてみる。どこもとがったところがない。ぐーぱーぐーぱーと何度か手を開閉してみたり、唇にかるく当ててみたりしたけれど、一度もちくっとしたりひっかかったりしなかった。これはすごい。爪切りよりも爪にいい、というのがなんとなくわかった気がした。でも自分でやるのは絶対むりだ。おれは恭介ほど集中力がないし、細かい作業もあんまり好きじゃない。
「恭介くん」
「はい」
「眉間、しわよってる」
「……」
 無言で手をとめ、しわを伸ばすように指でぐっと広げた。あ、気にしてるのかな。ごめん。
「なんか、集中してると寄るらしくて」
「へー」
「本読んでるときも寄ってるらしいです」
「あ、そういえば見たことある」
「文学作品ならまだしも、漫画読んでるときに眉間にしわよってるって言われるとすごく恥ずかしくなります」
「え、恭介くん漫画よむの?」
「読みますよ。ジャンプは早売り読みに行きますし」
「意外だなあ」
「まあ、俺だって少年のはしくれですから」
 週刊少年ジャンプがターゲットにしてる「少年」ははしくれとか言わないと思うんだけどな、という余計なツッコミは心の中にそっとしまって、そうだね、と曖昧に微笑む。毎日、その日発売の漫画雑誌を登校前に立ち読みして行くのが習慣らしい。てっきり恭介は漫画なんて読まないものだと思っていたのでとてもびっくりした。じゃあなんで部屋には単行本ないの、と訊くと、「続きは気になるから毎週チェックしますけど、本屋で単行本を前にするとあーこれ文庫本何冊分の値段だーとか換算しちゃって買う気になれないんで」と、今度はとても恭介らしい答えが返ってきた。
 ぐっぐっぐっ、と半ば意地になったようにしわを伸ばしてから、また爪の手入れに戻った。と同時に、また同じところにしわが刻まれる。……もう黙っておこう。そのほうが本人の精神衛生上良さそうだ。
 恭介の作業は丁寧なのと同じくらい速い。なんだか職人みたいだな、と思った。爪とぎ職人。どこに需要があるんだかわからない職人だなあ。
 薬指をせっせとやする恭介に、ふと思いついて「恭介くん」と呼びかけてみた。
「なんすか」
「足も、って言ったら怒る?」
「……どこの王侯貴族ですか、先輩は」
 ためいきをつき、それでもノーとは言わない恭介に、先取りで「ありがとう」とにっこりしてみせた。これはおれがいつもしているような強引で都合のいい解釈ではない。恭介はイヤならイヤとはっきりいう子だ。つまり、拒否されないということは(消極的ではあるけれど)承諾と受け取って問題ないのである。
「恭介くんやさしいねえ」
 おれにやさしくしてくれる人はいい人だ。たとえおれ以外の人にはどんなに極悪非道な態度をとったとしても、どんなに疎まれる悪人なのだとしても、そんなことはどうでもいい(もっとも、恭介ならわざわざ人にひどいことするなんてめんどくさい、俺は悪人に向いてませんって言うだろう)。どこまでもおれ中心に定めた自分ルールでは、おれにやさしい人がいい人、そうじゃない人が悪い人、なのである。
「はいはい」
 先輩の「やさしいね」は聞き飽きました、と肩をすくめる恭介に、駄目押しでもういちど微笑んだ。
 おれにやさしくして甘やかしてくれればそれでいいよ。他には何もしてくれなくていいよ。
「恭介くん、いい人だね」
 おれは悪い人でごめんね、恭介。


Fin


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