18.藤見さんのこと



 

「ごっめーん待ったー?」
 するはずのない声にぎょっと振り向くと、見慣れたちっこい美形がへらへら笑っていた。
「……せ、んぱい?」
「アハハー幽霊見たような顔してるー」
「当たり前ですよ。なんでこんなとこに先輩がいるんですか」
 俺が今いるのは東京の神田である。書店巡りに疲れ、小さな公園(と呼んでいいのか迷うが)のベンチに座って一休みしていたところに、こんな不意打ちを食らったら誰だって一瞬心臓が仕事を忘れる。勿論バイトもしていない貧乏学生の俺は冷やかしに徹するしかないのだが、ちゅー先輩はそれすらしに来ないはずの場所だ。
「おれ? 藤見さんのお付き合いダヨー」
「ふじみさん?」
「あのひと」
 振り返って指を差そうとするので、行儀が悪いからやめなさい、と腕を下ろさせながらそれらしき人を探した。そう遠くもない路上で、淡い緑色のサマードレスに白いボレロを羽織った二十歳くらいの女性が、ロマンスグレーという言葉がぴったりの背筋の伸びた老紳士となにやら話をしている。先輩と一緒、ということはあの女性だろうか。もしや先輩の彼女? うわ、ミスマッチにも程があるぞ。もしこれがドラマだったら確実に十人が十人キャストミスだと断言するレベルだ。
「あ、話終わったみたい。藤見さーん」
 大声で先輩が呼ぶと、予想に反して老紳士のほうがやってきた。若干違和感は薄れるものの、先輩と老紳士(推定還暦ちょっと過ぎ)の組み合わせというのも充分妙である。父親にしては歳がいっているし、かといって祖父にしては若い。
「藤見さん、恭介くんだよ」
「あ……どうも、初めまして。辻恭介です」
「ああ、あなたが。お噂はかねがね。初めまして、藤見敬四郎です」
 お噂ってなんだお噂って。
 手を差し出されたので、少し動揺しつつ握り返した。骨ばって乾いた老人の手は、力をこめすぎるとばらばらになりそうだ。しみはなく、しわが年輪のごとく刻まれている、きちんと年を取ってきた手である。
 お噂はかねがね、と言われても、俺は人の口にのぼる噂になるほど有名人ではないので、お噂とやらの源は間違いなくすべて先輩だろう。どんな話をされているやら、訊くのがすこし恐ろしい。
「今日は藤見さんと食事に行く日だから、ちょっと早く待ち合わせて買い物にお付き合いしてたんだ」
「そうなんですか」
 さっぱり二人の関係を把握できない俺には、それ以外言いようがない。
「あー、おれ喉かわいたからなんか買ってくるー」
 おいおい。初対面の二人を置いて行く気か。もっとも、先輩にそんな気遣いを求めるほうが間違っている、と経験から学んでいるので、抵抗はしない。これが南国の鳥みたいな格好をしたギャルとかと取り残されるのなら先輩を殴ってでも絶対に俺が買いにいくのだけれど、藤見さんは良識のある大人のようだし、平気だろう。
「迷子にならないでくださいね」
「失礼な。藤見さんと何度も来てるから大丈夫だよーだ」
 子供っぽくあっかんべーをしてから走って行ってしまった。そういう子供っぽいことすると本当に成人してるとは思えないからやめてください、とツッコみたい。
 先輩がいなくなるのを待っていたかのようなタイミングで、藤見さんはスーツの内ポケットに手を入れる。小説だとここで銃とか出てくるんだけど、と期待してみたものの、出てくるのは名刺入れだな、とあたりはついていた。
「アドレスをおききしてもよろしいですか」
 出てきたのは名刺ではなく携帯だった。
 しかもらくらくホンとかじゃあなく、ドコモの最新機種。確か相沢あたりがこれに変えたいけどどうしようかなー今の使いやすいんだよなーと悩んでいた(どうでもいいけど俺の部屋にカタログ持ち込むのはやめてほしい。ものすごく邪魔だ)から、それがわかった。ちなみに俺の携帯は中三のときからずっと変えていないので、藤見さんのよりも何世代も前のものである。
「あ、え、構いませんけど」
 じゃあ赤外線で、なんてにこやかに言う藤見さんは見た目だけでなく喋った声の感じからしてもやっぱり還暦を過ぎていそうで、そんな人がグロスブラックの薄い携帯を若者と同じように易々と扱っているのを見るのはなんだかとても妙な気分だ。俺の両親は藤見さんより十は下だが、未だにメールで小文字や改行が出来ない。アドレス交換なんてどこをどう押せばいいのかすらわからないんじゃないだろうか。まさか自分の親よりも年上の人とアドレス交換をする日がこようとは。まったく、先輩と付き合っていると妙なことばかり起きる。『藤見敬四郎 電話帳に登録しますか』のアラートにはいと答えながら、名前を心の中で呟いた。フジミケイシロウ。古風でいい名前だ。辻恭介、などというありがちな名前の俺としては少し羨ましい。
「さっき聞いたときも思ったんですけど、格好良いお名前ですね。なんだか歌舞伎役者みたいで」
「そうですか? ありがとうございます」
 藤見さんは銀縁眼鏡の奥でやわらかく目を細めるように微笑んだ。上品な笑い方をする人だ、と感心する。こんなふうに年をとれたらいいなあ、と思うが、多分無理だ。
「恭介くんは――」
 言いかけて、藤見さんは口をおさえた。
「すみません。彼が恭介くん恭介くんと呼んでいるので、つい」
「いや、構わないです、それで」
「そうですか? それではお言葉に甘えて。……恭介くんは、彼とどういうご関係ですか」
「どういう……」
 と言われてもとても困る。ただの先輩と後輩です、と答えようと思ったが、藤見さんの声が随分と真剣なので、俺も真面目に考えた。
 人間関係を維持する根気のない俺にしてみれば、ちゅー先輩は友達と呼んでも構わないほどの付き合いをしている、と思う。しかしちゅー先輩はちゅー先輩であって、いつか本名とか別のあだ名(あるのかは知らないが)とか、もしくはほかの先輩たちみたいに「ちゅー」と呼ぶ日は永遠に来ないと思う。あくまでも俺にとってのちゅー先輩は文字通りの「先輩」である。それに、先輩と後輩、として会った人間は、それ以外の関係にはなりようがない気がする。なんとなくだけれど。
「……よかったら、」
 ぐるぐるとりとめもない考えをもてあそぶ俺に、藤見さんはやわらかな、けれどかすかに緊張の滲む声で言った。
「よかったら、あの子の友達になってやってください」
「はあ」
 思わずそう言ってしまってから、いやいや年上に向かってなんという失礼な態度だ俺、と自分で猛烈にツッコんだ。先輩と友達になる。もっとも、今だって付き合いとしては似たようなものだとは思うが。先輩といっても特に敬ってないし。じゃあ何で俺は先輩のことを友達と呼ばないのだろうか。
 友達、と呼ぶには、先輩と俺の間には一枚薄い膜がある気がする。壁というほど厚くはなく、けれど、確実に存在する隔たり。それが何かなのかはよくわからないが。根っからの文系な俺には感覚的なものとしか言いようがない。
「まあ、あの、今も結構仲良くしていただいてるんで、先輩が俺を友達だと思ったら友達になれると思います」
 随分と正直に答えてしまった。曖昧すぎて答えていないのとさして変わらないような気もするが、藤見さんはほっと息を吐いて笑ってくれる。いい人だ。藤見さんと先輩は、と訊くより先に、藤見さんがなかなか衝撃的なことを言った。
「彼は人を頼らないから、心配です」
「……先輩が?」
 いい人というか、度の過ぎたお人よしなのだろうか。理不尽な呼び出しや我侭に付き合っている俺からしてみれば、先輩はもう少し人に頼らない、自立した生き方を身につけるべきだとしか思えないのだが。俺の心の中を読んだかのように、藤見さんは笑った。
「彼は人に頼りませんよ。甘えるのは得意技ですけれど」
 その違いについて訊き返す前に、先輩が戻ってきてしまった。ファンタオレンジとアクエリアスとお茶。人の分を買ってくるなんて気遣いが出来る人だったのか、と半ば本気で思ったが、さすがに口に出すのは失礼なので黙っておく。それにしても、走って戻ってきたけれどあのファンタは無事なのだろうか。思い切り振ってたのが見えたんですけど、先輩。
「藤見さんはお茶ですよねー。恭介くんどっち?」
「……」
 選べと?
 自分のしでかしたことには全く気づいていない様子で、先輩は無邪気に訊いてくる。言葉に甘えてアクエリアスを選ぶか、大爆発覚悟で後輩らしく気を遣ってファンタを選ぶか真剣に苦悩していると、青い缶を渡された。
「じゃあアクエリあげるー。おれねーアクエリより断然ポカリ派なのにここらへん全然売ってないの。もっと大塚製薬がんばってよ! ってかんじ。しょうがないからアクエリ買ったけど、やっぱあの特有の薄さってゆーかなんか味がダメ」
「先輩は偏食のわりに舌敏感ですよね」
「舌敏感だから偏食なのよ」
 その理屈はよくわかりません。大体、人参が嫌いなくせに(ファミレスでシチューやカレーの人参を俺の皿に移すのはやめてほしい)この前キャロットケーキをおいしいおいしいと嬉しそうに食べていた人の舌が敏感だとは到底思えない。
「じゃーケンパイしようケンパイ」
 先輩がファンタを開けながら言った。炭酸が噴き出す大惨事、と思いきや、最近売り出した「振らないと飲めないファンタ」とやらだったようで、俺の思っていたような事態にはならずに済んだ。
「献杯? 乾杯じゃなくてですか?」
「もー、どっちでもいいじゃない」
 よくないと思います。あと、藤見さんも少しはツッコんでください。
 なんだかんだ言いつつ(思いつつ、か)素直にアルミ缶を二人とぶつけあう。
 ずつん、と音というよりにぶい振動として手に伝わる乾杯は、思っていたより悪いものじゃなかった。



Fin


20080512mon.u
20080512mon.w

 

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