19.「人違い」のこと



 

「お客さん、終点ですよ」
 肩を叩かれ、おれはあわてて飛び起きた。この時間帯に無事座れたから、と気を抜いていたせいで寝過ごしてしまったのだろうか。
「なんてね、冗談」
 隣に座っていた女の子(おれの肩を叩いた犯人)が、かすかに聞き覚えのある声でくすくす笑う。つやつやの黒髪とふんわりした小花柄のワンピース、きれいなうなじ。えーと、誰だっけ。あ、あれだ。
「お花見のときの桜ワンピさんだ」
「正解。よくおぼえてるね」
「おぼえてるよー。おれ、やさしい人忘れないもん」
 たしかプルトップオープナーを貸してくれたし、おれが笑ったらいっしょに笑ってくれた。いいひと。千鳥ヶ崎公園でお花見したときは、近くに住んでいる人や実家がある人が集まってやったから、たぶんこの人も近くに住んでいるのだろう。
「ちゅーくんどこで降りるの?」
「模山」
「あ、一緒だ。わたしも」
 ドアの上にある案内表示を確かめると、あと二駅で模山だった。終点ではないにしろ、彼女が起こしてくれなかったら確実に乗り過ごしていただろう。
「へー。実家?」
「うん、実家から通ってる。そっちも?」
「ううん、おれは一人暮らし」
 あら、と彼女は言ったけれど、どうして一人暮らしなのに大学の近くに引っ越してこないのか、とは訊かなかった。いい人だ。代わりににっこり笑って、一人暮らしっていいね、とだけ言う。いいでしょ、と笑い返した。
「明日サークルの飲み会あるけど来る?」
「明日ー? あー、人と会う約束あるから無理かなー、ごめんね」
 大学帰りに恭介と遊びに行くのだ。遊ぶといっても、おれがユニクロと漫画雑誌のコラボTシャツを買いに行くのに付き合わせるだけなのだけれど。恭介はなんでそんなもんわざわざ買いに行くんですか、と呆れていたが、欲しいものは仕方が無い。
 おれはユニクロの妙なコラボTシャツを集めるのが好きだ。漫画コラボのときばっかり騒がれているが、「広辞苑」や「伝統芸能」、「メジャー企業」などの妙なTシャツもなかなか味わい深い。ちなみに今日おれが着ているのは魁!クロマティ高校のやつ(サンデー・マガジンコラボのときの)だ。ジョジョとゴルゴシリーズは家宝なのでていねいにしまってある。
 模山駅で電車を降りて、改札で別れるまで、そうやって当たり障りのない世間話と笑顔のやりとりをした。無駄に踏み込んでこない人だ。いいひと、とまた思う。踏み込んでくる人と会話をするのは疲れるから嫌いだ。
 駅前の商店街を歩いていると、八百屋でじゃがいもとたまねぎが安かった。買い込んで肉じゃがとかつくろうかな、と考えていると、後ろから声が聞こえる。
「にいさん?」
 無視してじゃがいもを戻し、振り返らずに歩き始める。もういちどためらいがちに、けれど、今度ははっきりと、おれに呼びかけた。
「に、いさん」
 めんどくさいなあ。溜め息をついて振り向くと、相手は叱られた子供みたいにびくっとした。相当な勇気をもって発せられたであろうその四文字を、おれは笑って払いのける。
「悪いけど、おれ、弟も両親もいないからさー。人違いでしょ?」
「……そんなこと」
 言わないでください、と続きそうな声を遮って、もういちどにっこりする。育ちがいい、というよりは、愛されて育った顔をしている。おれはきみのことが、吐き気がするくらい大嫌いだよ。
「何勘違いしてるか知らないけど、おれはいないはずの人間だから、家族なんているわけないんだよ?」
 びくっと肩を揺らして、一度口を開きかけたけれど結局黙りこくった。悪いかな、でも本当のことなんだから仕方ないじゃない?
 必死に何かを言い募ろうとして、けれど言葉が見つからないらしく泣きそうな顔をした。そんな顔されてもおれ困るんだよね。だっておれ、キミと関係ないもの。
「おれには家族なんていないよ。お兄さんが欲しいんだったら、残念だけど他あたってね」
 それだけ言って背を向けると、おれは答えを待たずに歩き出した。まって、と言われたような気がしたけれど、たぶん気のせいだ。それに待ってあげる義理も理由もない。なにひとつない。追いかけてくる足音がないことにほっとして、それからそんな自分に猛烈に腹が立った。
「おれなんていないんだから仕方ないよ、ねえ」
 自分に言い聞かせるように呟いても、ぐじぐじと心臓の下あたりが腐ったように不快だ。あたりを見回すとセブンイレブンがあった。運良くアルコール類販売店だったので飛び込み、年齢確認をされる前に免許をつきつけてやたらめったらにお酒を買う。行儀悪いな、と思いつつ、ひとつ缶をあけて飲みながら家に帰った。お月様をみながらのむビールはすごくおいしい。歩いているからいつもよりアルコールのまわりが早いのか、お月様が喋った。あーもーおれすげえ酔っ払ってんなー。好きなくせに弱い、ってのは、こういうふうに自棄酒をのみたいときはすごく不便だ。
『仕方ないって言って全部逃げるつもり?』
 なんだよお月様なんてきいろくてまんまるになって空に浮いてぴかぴかしてるだけのくせになにがわかんだばかやろー、と無性にムカついて、ビールをぐいっと一息に飲み干した。やばい、道端で酔いつぶれる前にはやく部屋に戻ろう、と思って走ったのに買いすぎたお酒が重くてうまく走れない。なんかもうすごい悲しい。やってらんない。
「……おつきさまなんかにはわかんないよ」
 あのこにもわかんないし、藤見さんにも柴っちにも桜ワンピさんにもきっとわかんない。恭介にだってわかんない。いないはずの人間の気持ちなんかまっとうなやつらにはわかんない。
 目に付いたお酒ぜんぶカゴに放り込むんじゃなかった。めちゃくちゃ重い。箸より重いものは全部人に持ってもらうような日々を過ごすおれに持って帰れるはずがない。はやく部屋でお酒飲みたいのに。ビニール袋を引きずるのにも疲れて、道端に座り込んだ。コンクリートの塀がぴたぴたつめたくて気持ちいい。ちょっとだけ涙がひいたけど、すぐにぶりかえした。もういい、ぜんぶここでのむから。手始めに梨の味のお酒を開けて、ちっちゃな缶ごとのむつもりでおもいっきり流し込んだ。喉をすべりおちていったつめたさが、胃に落ちると熱に変わってしみてくる。すこしだけ目の前がぼんやりしてるのは泣いてるせいなのか酔っ払ってるからなのか、よくわからない。どっちでもいい。もうぜんぶどうでもいい。
 悲しいのもムカつくのもわからずやのお月様もぜんぶぜんぶ飛んじゃえ。
 ばーか。


Fin


20080514wed.u
20080422tue.w(20080513tue 加筆修正)

 

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