20.恭介に怒られたこと



 

(もーおれ死ぬんじゃなかろうか……)
 縁起でもないし、わりと洒落にもならないことを、熱で性能がだだ下がり中の脳味噌で考えた。ちなみにおれがいま倒れているのはかろうじて部屋の中、早い話が玄関である。
 おれがどこに住んでいるか知っているのは藤見さんだけだ。そして藤見さんがおれの家まで来るのは毎月の食事会のときだけなので、三週間くらいは誰もおれの様子を見に来ないことになる。たまに用事があれば電話くらいは寄越してくれるけれど、それもやっぱり月に数度のことだ。
 体が火照って仕方ないのに、寒くて寒くて凍えそうだ。ベッドが遠い(そもそも今のおれはベッドに這い上がる気力すらなさそうだ)。高熱、咳、くしゃみ、鼻詰まり、その他諸々。どこからどうみても完璧に風邪を引いた。しかも半端ない。ティッシュはすぐなくなるから、と、ポケットの中に入っていたハンカチで洟をかんでいるけれど、どうしても息苦しくてつい口で呼吸してしまう。そのせいか余計喉が痛い。
 路上で酔っ払ったあとの記憶がふっつり切れて抜け落ちている。夢の中で何かものすごくうるさい音がしていて頭が痛くなったから、動かない体でどうにか止めにいったんだけれど、あれはなんだったんだろう。お迎えの鐘の音? 笑えねー。
 そういえば恭介と約束があったはずだ。行けないって言わないと。電話をかけよう。必死で這って、殆ど使っていないせいで埃が薄く積もっているボタンをぴぽぴぽ押した。指先が細かい埃のせいでざりざりする。
「……っれ……」
 コール音が聞こえない。電話がつながらないのか、電話番号を押し間違ったのか。でも押し間違いならそれはそれでなにか音が返ってくるはずだ。なんでつながらないんだ? あれ? おかしいな。もっかい押してみよう、と指を伸ばしたはずが、何故かおれの視界はひっくりかえっていた。床に直置きしてあったはずの電話機が消えて、うすいグレーの天井がぐらぐら揺れる。あれれ。これ、ちょっと神経にキてませんかおれ。やばめ?
「ちょ、せ、先輩!? 生きてます!?」
 あっれほんとにやべえよ幻聴聞こえた。恭介の声聞こえるんですけど。やっべ。
「先輩っ」
 うわ、すごいな。今度は恭介の顔が見える。おれまだ酔っ払ってんのかな、それとも熱上がりすぎた?
 ぼんやりしてると、幻覚の恭介がなんだかちょっと泣きそうな顔になった。想像力というものが致命的に欠如しているおれにはこんな見たことない表情は創作できない。ってことは、あれこれホンモノ?
「あ、っれ……きょ、すけ、くん?」
 どうにか声を振り絞ってみると、恭介がほっとしたように目元を緩ませた。でもそれは本当に一瞬だけのことで、すぐにいつもの仏頂面に戻る。
「はいはい間違いなく俺ですよ。ったく、病人じゃなかったら殴ってるとこですね」
 ぐらりと体が持ち上げられた。あんなに遥かだったベッドまでの距離が、たった数歩でゼロになる。硬くて冷たい玄関とは対照的にふかふかの布団にもぐりこむと、さっきよりもだるさが全身に拡がっていく感じがした。ほっとしたのかもしれない。すくなくとも、死ぬかも、の危機は脱した。
「とりあえず無事みたいなので、ひえピタとか買ってきます」
 立ち上がろうとする恭介のジーンズの裾をよろよろとひいた。指先でかるくひっかけただけだったけれど、恭介はなんですかとしゃがんでくれる。
「……、ず」
「水ですか?」
 こくこく頷くと、待っててください、と頭を少し強めに押された。寝てろ、の合図だと解釈して、素直に枕に頭を預ける。喉が渇きすぎて痛い。
 戻ってきた恭介は、普段は使っていないはずのプラスチックのコップを手にしていた。一人暮らしを始めた頃、お金を使いたくないからと百円ショップで適当に食器を集めたときのものだ。おれが落としても割れないように、という気配りなのだろう。
「上半身起こしてください」
「うー……」
 体が尋常じゃないくらい重くて、とてもじゃないけど起きられそうにない。それより水、と手を伸ばすと、駄目、とコップを遠ざけられた。ひどい。
「気道に入りますよ」
 しぶしぶ体を起こそうとすると、恭介が右手で背中を支えてくれた。一気に飲みたいのに、がさがさになった喉がふさがってうまく飲めない。両手でコップを持ち、少しずつ少しずつささくれをなだめるように流し込む。
 時間をかけて一杯飲み終わると、ほかの部分はともかく、声は出るようになった。お礼言わなきゃ、と思って口を開いたのに、出てきたのは全然別の言葉だった。
「……ふほーしんにゅー」
 それだけ言ってから、クセでへらっと笑った。恭介の眉間に皺が寄る。
「不法侵入されたくなけりゃちゃんと鍵閉めたらどうですか」
「なんでここわかったの?」
「藤見さんが『電話かけてもつながらないから代わりに様子見てきてくれ』って。……電話線抜けてりゃつながるわけないですね」
 ああ、それでさっきもつながらなかったのか。夢の中で黙らせたあのうるさい音は、藤見さんからの呼び出しだったのだろう。電話線をひきちぎるだけの腕力がなくって本当によかった。
「ごめ、今日、いけなくて」
「今日? 約束は昨日ですよ」
「……」
 丸一日玄関で酔いつぶれて寝てたなんて。そりゃあ風邪も引くはずだ。
 恭介の声がどんどん不機嫌になっていく。あ、やべ、約束破ったの怒ってんのかな。ごめんね。怒んないで。どうしよう、どうしたらいいんだろう。
「ごめ、ん、迷惑……で、かえって、いいよ?」
 ばちん、と頭の内側に響く鈍い音がして、視界がぶれた。なんだろ、と首を傾げると、かなりの時間差で頬っぺたにじわじわ痛みがしみてきた。フローリングに取り落としたコップが落ちて硬い音が響く。あ、叩かれたんだ、とようやくわかる。
「バカですかあんたは!」
「きょ、すけ、くん」
「連絡なしに約束すっぽかしたと思ったら玄関先でぶっ倒れてるし、口開けば不法侵入だの帰っていいだのふざけたことばっか言うし、いい加減にしてくれませんかほんとに! 心配もロクにさせないつもりですか!」
 おこんないで、と言おうとして、口をつぐんだ。こんなに真剣に怒られたのは久しぶりで、心配されたのも同じくらい久々だったから、なんだか勝手がわからない。
「あんたが迷惑なのは知ってます! 雨が降ったってだけで一体何回駅まで呼び出されたことか! でも行けるときは全部迎えに行きましたよ俺は! 迷惑だけど迷惑じゃないですよ、変に遠慮する先輩なんか気持ち悪いし逆に迷惑なんですよ、いいからあんたはわー恭介くんだーお水飲みたいから持ってきてよーとか言ってりゃいいんですよ!」
 なんだか恭介のほうが熱出てるんじゃ、と思うくらい、普段とはかけ離れた声と口調だった。きつく刻まれた眉間の皺が急に解かれた、と思ったら、うつむいて両膝に置いた手をぎゅっと握り締める。肩が小刻みに揺れているから、どうしたのと声をかけようとしたらぽたぽたと恭介の掌に涙が落ちるのが見えて、また言葉をなくした。
「少しくらい、頼ってくれてもいいじゃないですか」
 なんだか恭介のほうが怒られていたかのような、切実で、か細くて、ちいさな子供みたいな声だった。思わず笑って、うん、ごめんね、とうなずき、恭介の頭を抱えこむように抱きしめる。
 やっぱり恭介はいい子だ。誠実で、優しくて、こんなどうしようもないただの先輩を真剣に心配してくれる。嘘つきでふまじめでいい加減にへらへらしてるおれとは正反対。でも、いい子だから、おれは恭介に頼れない。
「ありがと、恭介くん、ごめん」
 心配してくれてありがと。頼ってあげられなくてごめん。
 泣くほど心配してくれる人のことさえ頼れない自分の卑しさに心底うんざりしながら、おれはもういちど囁いた。
「ごめんね、恭介くん」



Fin


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