21.相談のこと



 

「お前、もう天文部入れよ」
「いやあ、俺は帰宅部を愛してるからさ」
 夜の学校をぺたぺた歩きながら至極真っ当な提案をしてみたのだが、相沢はあっさり却下した。
 俺たちがこんなところにいるのは、別に季節を先取りしすぎた肝試しをしているわけではない。今日は天文部の合宿なのだ。
 ちなみに今日観測するのはナントカ流星群(なんだか舌を噛みそうな名前だったので覚えられなかった)である。俺はのんびりと星を眺めるのが好きなだけなので、こういう本格的な天体観測にはあまり興味がない。
 もっとも、長期休暇ではなく平日に行われる学校での合宿は「器具や部屋の準備と片付けを参加者全員でやる」と「活動禁止になるようなことをしない」の二つを守ればあとは個人の好きにしていいことになっている。星を見ようが地学室で喋っていようが夜の学校で鬼ごっこをしようが視聴覚室の大スクリーンに持ち込んだゲーム機をつないで大乱闘スマッシュブラザーズに興じようが、誰も文句を言わない。
 相沢は天文部員でもないのに、学校での合宿には必ず顔を出す。文化祭を除けば我が校の天文部の活動なんて合宿だけなのだから、実質的にはもう立派な部員である。ならば毎回毎回顧問に了解をとるよりも正式に入部した方が面倒がなくていいのじゃないか、と思うのだが、相沢に入部の意思はないらしい。髪の色のせいで目をつけられイビられたという中学時代の運動部が未だにトラウマなのか、部活に入るということ自体を嫌がっているフシがある。
「屋上あがる? 流星群、そろそろでしょ」
「んー、まあ……」
 合宿に来ておいてなんなのだが、今日はあまり星を見る気分ではない。濁した言葉尻の先を読んだかのように、「じゃ、教室で喋ろうぜ」と相沢がすぐそばにあった教室の引き戸をあけた。俺たちの使っている教室の丁度真上、一年B組の教室である(千鳥ヶ崎高校は学年があがるほど教室のある階が下がる。新入生は毎年校舎が古い分だけキツい階段を四階まで上りながら、留年せず真面目に進級しようとかたく決意するのだ)。
「あー、やっぱ一年の教室は空が近いな」
 カーテンと窓を思い切り開け放つと、まるで扇風機でも仕込んであるかのようにぶわっと相沢の髪が風にあおられてなびいた。軽く首を振ってから、まだ入り口に立っている俺に向き直る。まったく、仕草のひとつひとつがいちいち映画のようにハマるやつだ。
「んで、何、その当社比六割増な仏頂面。よければ相沢くんのお悩み相談室開くけど?」
 晩春の風をうけながら、さらりと相沢は言った。押し付けがましくもなく、かといってふざけているわけでもない口調は、俺には到底真似できないもので、そんなふうに言葉を発することのできる友人が時々羨ましくなる。
「んー……悩んでるっつか……」
 水を向けられてもなお言葉を探しあぐねる俺に呆れるでもなく、肩少し上の茶髪を窓から吹き込む夜風に遊ばせながら、相沢は相槌もうたずに黙って待っている。その沈黙に背中を押されて、呟くように続けた。
「喧嘩、ですらないけど、ちょっと人殴っちゃって」
「……喧嘩じゃないのか、それは」
「全然。俺が勝手に怒って勝手に殴った」
「恭介意外と熱いヤツなのな?」
「いや。こんなの初めてだ」
 苛々しながら結局先輩を待つだけで一日が過ぎた次の日の夕方、藤見さんから電話がかかってきたとき、最初は先輩からだと思った。能天気で、悪かったなんて露ほども思って居なさそうなあの調子で、ごっめーん寝過ごしちゃったーだとか忘れてたーだとかそんなことを言うんだとばかり思っていた。
 自宅にかけても電話がつながらない、あいにく今手がはなせないから代わりに様子を見てきてくれ、と、藤見さんの少し焦ったような声が流れ込んでくる右耳から体がすっと冷えていくような錯覚に陥った。血が足元まで全部落ちて、心臓が痺れてうまく動かない、そんなふうに。
 教えてもらった住所を頼りに錆びかけた自転車を飛ばして、必死に先輩の住むアパートに向かったときの痛いくらいの不安は、まだ胸の底に焦げついている。
「こういうの慣れてないから長い話になると思うけど、話していいか」
「どーぞ」
 相沢は屈託なく笑った。もちろん嫌だとしても言える状況ではないけれど、そんなことは露ほどにも思っていない、と書いてあるような笑顔だった。
 友人というものをこれほどありがたいと思ったのは、多分初めてのことだ。
「前から、仲良い従兄の話はしてたろ?」
「ああ、うん、ちゅーさん?」
 うん、と頷いて、俺はうまくまとまらない言葉をなんとかつくねて文章にし、ゆっくりと話し出した。
 大幅な遅刻はしても連絡なしに約束をすっぽかすのは初めてだったから、苛々しつつも何かがおかしいと感じていたこと。様子を見に行く間中、ずっと最悪の予想さえ出来ないくらい頭が真ッ白になっていたこと。鍵のかかっていないドアを開け、倒れている姿を見たとき、本気で死んでいるのかと思って手が慄えたこと。結局ひどい風邪に罹っていただけで、命に別状はないのだとわかって、その場で膝をつきたくなるくらい安心したこと。高熱で焦点すらろくに定まっていないくせに、人を頼るどころか「かえっていい」などとふざけたことを抜かすのでカッとなって思わず手をあげてしまったこと。そんなことを思い出しながらひとつひとつゆっくりと、なるべく順番どおりに話した。
 こんなに長い話をするのは初めてで要領がよくわからず、おそらく聞いている側にしてみればひどくじれったいであろう空白を差し挟みながらになってしまったのだけれど、相沢はじっと耳を傾けてくれた。外見だけではなく、こういう性質の良さも相沢が好かれる理由のひとつなのだろう。
「初めてなんだ。あんなにいらついたり、人を殴りたくなったり、そういうの全部」
 そう話を締めくくると、暫く俺も相沢も黙った。初夏には少し早い季節のゆるやかな夜気だけが、かすかに葉ずれの音を立てながら室内に忍び込み、肌を撫でる。
「……恭介、ちゅーさんのことよっぽど大事なんだな」
「え?」
「いや、そう見えるよ? だって明日世界が滅びます、って言われても淡々と『ああ、そう』とか言って知らん顔で本読んでそうだもんお前」
 一体俺はどんなイメージを持たれてるんだよ。
「だから俺は取り乱して相手殴るくらい他人を心配する恭介とか想像つかないけど、ようするに、それくらい大事な人ってことじゃねえの?」
「……」
 あんな自己中で気分屋で我侭で理不尽で滅法弱いくせに酒飲みの困ったお子様を何故俺が大事にせにゃならんのだ。
 さっきから無数のツッコミが俺の胸の中で鳴門海峡ばりに渦巻いているのだけれど、口から出たのは何をどう間違ったのか知らないが、「そうだな」という肯定の言葉だった。
 生まれてこの方「殴りたい」と思ったことがない、と言うほど出来た人間ではない。それでも、気づいたら殴っていた、というくらいに取り乱したことは、この間の件を除けば物心ついてから一度もなかったと断言できる。
 殴りたいと思うくらい嫌いになった人間とは遠ざかって交流を絶ち、何を言われようと嫌がらせをされようと相手にしなかった。その態度が大人びているといわれたこともあるが、実は単に面倒がいやで逃げ続けてきただけである。売られた喧嘩を買うほどのやる気も、ごたごたした付き合いを続けるほどの熱意も持ち合わせていない。だからいつも一緒にいるのは、なんとなく一緒に居るのがラクで、まあいないよりはいたほうがいいような相手、というほどのものであって、こんなふうに困ったときに相談を持ちかけようと思ったり、裸足のうえ間違って父親の革靴をつっかけて自転車を漕ぎ様子を見に行くほど心配したりするような存在、ではなかった。断じて。
 結局、俺は今まで本当の意味で「人付き合い」をしたことがなかったのだろう。先輩が俺を頼ろうとしなかったのも当然だ。こんな温度の低いつきあいしかしてこなかった人間を信用しろというほうが無理な注文じゃないか。
「……どうしよう、俺」
 心配させろ、なんて、どうしようもないエゴだ。言い返す気力のない病人に、勢い任せにひどいことばかり言った。
 思い出すほどに、謝るタイミングを逃してしまった俺の肩に、後悔が見えない重みとしてのしかかってきた。
「謝ればいいじゃない」
「気楽に言うなよ……」
「っつても、恭介は謝らないとずっと気に病むだろ。いつも聞いてる話からして、ちゅーさんのほうはあんまりそういうの気にしなさそうだけど」
 でも、と反論しかけて、続ける言葉がないことに気づいた。黙ろうにも、相沢が、なに、と訊くように俺の目を見るので、仕方なくみっともないことを言う。
「……謝りかたが、わからない」
「殴ってごめんなさい、でいいんでないの」
「そんなものか?」
「そんなもん。喧嘩したことないの?」
「ない。俺一人っ子だし、売られた喧嘩は全部逃げた」
「逃げた、て。やー、恭介らしいなあ」
 きっぱり答えると、相沢は大笑いした。つられて俺も笑う。
 ひとしきり笑ったところで、アメリカ人のように大袈裟な仕草で相沢が肩をすくめた。
「ま、かくいう俺も、いざとなると謝り方わかんなくなっちゃったりするけどね」
「相沢こそ喧嘩なんかするのか?」
「そりゃ、俺は恭介ほど人付き合い投げてないから。恭介と違って兄貴もいるしさ」
「おい、後半はともかく前半はなんだよ」
「事実じゃん」
 なんとなくなし崩し的に笑いあって、窓の外に目を向けた。都会というには寂れすぎ、しかし田舎にしては明かりの多すぎる模山の夜空を、流星群のひとひらが滑り落ちていく。ピーク時らしく、あ、きた、と思う間もなくまた一筋光が落ちた。
「丁度いいじゃん、お願い事しとけよ」
「何を?」
「ちゃんと謝れますように、って」
 俺も一緒にお願いしてやるよ、と相沢はばかげて子供じみたことをまじめに言った。わかった、とうなずいて、白い光のどれかに願いをかける。
 明日、先輩と会おう。ごめんなさい、って謝ろう。先輩はたぶん許してくれるだろうけれど、もし許してくれなくても、とにかくちゃんと謝ろう。謝れますように、ではなく、謝ろう、なのは最後の意地だ。なんに対してのかは知らないが。
 真っ白い流星のどれかひとつくらいは、俺の張った意地を聞き届けてくれたことだろう。


Fin


20080528wed.u
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