携帯が欲しいからつきあってくれ、という旨の電話に叩き起こされたのは、特撮番組さえもまだ始まっていない日曜朝七時のことだった。指定された場所は、五駅先にあるヨドバシカメラである。これから出かけると最速で八時前に着いてしまう。一体どこの世界にこんな朝早くから開いているヨドバシがあるというのだ。コンビニじゃあるまいし。
心の中でそうツッコミを入れながらも、なんだかんだで八時二十分にはヨドバシについてしまった。とっくに着いて暇をもてあましていたらしいちゅー先輩が、俺に気づいてもたれかかっていたシャッターから体を起こす。
「恭介くんおっはよー」
「おはようございます」
休日の朝っぱらからいきなり呼び出したくせに全く悪いと思っていなさそうな顔でちゅー先輩はにっこり笑った。なんだかツッコむのがあほくさくなって、俺も笑い返す。ちゅー先輩が理不尽でわけがわからないのはいつものことだし、俺だって嫌なら来なければいいだけのことだ。
「ガム食べるー?」
「……はあ、いただきます」
先輩なりの気遣い(のつもり)なのだろう。いつも先輩が好んで噛んでいるロッテのブルーベリーガムは甘すぎる後味で口の中がべたつくのであまり好きではないが、断るのも悪い気がした。
うつむいてポケットを探る先輩の髪がやわらかく朝日をはねかえして光った。よくみるとうっすらと湿っているし、毛先には水滴がたまっている。
「髪濡れてませんか」
「んー? あー、朝からシャワー浴びてきたからね」
先輩の家は(俺が行ったあのアパートのみだとするならば)俺と同じく千鳥ヶ崎町内のはずである。一時間半前からこの付近にいたにしては水っぽすぎるんじゃないだろうか。
「ラブホ帰りと見ました」
「やーだー恭介くんやっらしー。漫喫帰りですよ漫喫」
「え、シャワーなんかあるんすか?」
「あるんすよ、それが」
あしたのジョーを読み耽っていたら終電を逃して帰り損ねたらしい。なんとも先輩らしい話だ。
「携帯、機種変更ですか」
「んん、新規。おれ携帯持ってないもん」
「意外ですね」
「ま、必要なかったからさー」
いつも駅からかけてくると思ったらそういうことだったのか。考えてみれば、俺は先輩の電話番号もメールアドレスも知らない。用があれば先輩が来たとき、本人に伝えれば済むので特に訊く必要がなかったからなのだが、まさか持っていないとは思わなかった。
「必要になったんですか」
「んー、いやあ、ていうか、ちょっとした心境の変化?」
「はあ」
「前はさ、めんどくさいからいらないかな、って思ってたんだけど、最近じゃないほうがめんどいんだよね。どこもかしこも公衆電話撤去されちゃっててさ。あと」
ふいに言葉を切って、先輩が俺の目をぐっとみつめた。瞳にみなぎる真剣さとは裏腹に、口許がいつも通り笑っているのがなんだか不気味だ。なんすか、と俺はたじろいで少し体をずらす。
「恭介くんにもうちょっとつけこもうかな、って思って」
なんだそれは。
至極当然の疑問を口に出そうとするのを邪魔する、まるで謀ったかのようなタイミングでシャッターがガラガラと音を立てて巻き上がった。いつのまにか開店時刻になっていたようだ。
大抵の電気屋がそうであるように、入り口すぐのところに各キャリアがデモ機を並べる携帯電話エリアが広がっている。青、オレンジ、白、とテーマカラーで色分けされたブースを物珍しげにうろうろする先輩は、大きなデパートのおもちゃ売り場に連れてきてもらった子供のようだ。いくら自分で持っていないとはいえ、そこまで珍しがるものでもないと思うのだが。とりあえず一番近かったドコモのスペースで色々手に取りながら訊いてみる。
「どういうの買う、とか決めてます?」
「全然。おれよくわかんないから」
だから参考のために携帯ユーザーの俺を呼んだのだろうか。自慢じゃないが、俺だって使っているのは中三のとき(もう二年前だ)からずっと変えていない、何世代も前のモデルである。通話とメールが(つまり通信が)できればそれでいいので、デジタルカメラ並の画素数にもワンセグとやらにも興味はない。どうせ使わないに決まっている。
ただ、最近ではさすがにガタがきはじめているのか、電話の最中に声が突然途切れたり、何のメッセージもなしに電源が落ちるようになった。買い替え時かもしれない。俺も今日なにか良さそうなものを探しておこう。
「じゃあ、これでどうですか」
キャンディのようなフォルムと、安っぽくてぺかぺか光るプラスティック全開のおもちゃみたいな色をした携帯を渡した。
「ありがとー。……ってキッズケータイじゃんこれ!」
「すみません。魔が差して、つい」
「……恭介くんてたまに本気でおれのこと年上だって忘れるよね」
不満そうな口調のわりに、結構楽しそうな顔でパカパカとフリップを開閉したり何の反応も返さないボタンを押したりしている。うん。やっぱりキッズケータイがよく似合うな。と思ったが今度は言わずにそっと胸の中にしまっておいた。
「話戻しますけど、機能で選ぶとか、値段で選ぶとか、色々基準はあると思いますよ」
藤見さんが使っていたものと同じ携帯を見つけて手にとってみながら、思いつくまま言った。さすがに最新機種だけあって高い。まあ、俺は型遅れの安いやつで充分なので買う気はさらさらないのだが。
「んーと、機能かー。ええと、電話できるやつ」
「そんなんどれでも出来るに決まってるでしょうが」
通話機能のない携帯電話なんてものは前衛芸術かただのガラクタのどちらかである。
「じゃあメールもできるの」
からかわれているのだろうか、と思い先輩の顔を見てみるが、いつも通り笑ってはいるがべつにふざけている様子ではない。本当にわかっていないのかもしれない。この人、もしかして俺よりアナログなんじゃないだろうか、と内心首をひねった。このまま訊いても「写真とれるの」だの「ネットできるの」だの、今時の携帯にはデフォルトでついている機能しか挙げない気がしたので、別方面のアプローチにした。
「……デザインで選んだらどうですか? 不便だ、と思ったらまた買い換えればいいし」
「そだね。あ、あのオレンジのやついいなあ」
auとドコモの違いもよくわかっていないらしく、ドコモのデモ機を手にしたまま歩こうとするので止めさせた。本当に、子供に携帯を買い与えにきた親の気分である。
片っ端から手にとって触ってみる先輩を放って、俺も機種変更候補を探すことにした。メタリックなものは指紋がつくのでパス。二つ折りじゃないやつもうっかり折り曲げそうで怖いからパス。シンプルなものがいいのだけれど、あまりにもシンプルすぎるとストラップがつけられない。黒い革製のストラップを頼りに鞄やポケットからひっぱりだすのがクセになっているので、せめてひとつくらいはつけても違和感のないものが欲しい。なんだ、意外と条件多いな、と自分で苦笑した。
「あ、これいいな……」
俺の使っているものの何分の一だろう、と思わず考えてしまうくらい薄い携帯を手にとって、反射的に値段を確かめる。ニューモデルではないらしく、さすがにゼロ円ではないもののこれくらいなら機種変更しても構わないだろう、と思う程度には安かった。また来るのもなんだし、今日変えてしまおう。
上半分が銀色のディスプレイ、下半分が緑のシンプルなデザインだ。棚を見ると下半分はほかにもカラーバリエーションがあったので、少し迷ってから今日着ているシャツと同じ青を選ぶ。今まで使ってきた黒い携帯より、こういう色つきのもののほうが汚れや傷が目立たなくて良さそうだ。
「なにー、恭介くんそれにすんの?」
「そうですね」
「んじゃおれもそれにする」
おれオレンジにするー、と先輩はなんのためらいもなく色違いのものを手に取った。いいのかそんな決め方で。
「……そんな、ファミレスでメニュー迷った時みたいな決め方でいいんですか」
「だって結局どれも一緒に見えてきて疲れたし。おんなじ機種なら説明書読まなくても恭介くんに訊けるしー」
「後半が本音ですか」
「本音ですね」
これが先ほど先輩の言っていた「つけこもうかな」なのだろうか。なんだそれは、と思わないこともないが、いつも通りといえば大変いつも通りである。
まあ、うちの親にメールの打ち方を教えたときより時間がかかるなんてこともないだろうし、せいぜい俺も電話のかけ方から馬鹿丁寧に教えてからかうことにしよう。
Fin
20080607sat.u
20080607sat.w
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