25.雨見酒のこと



 

 先輩の行いが悪かったんじゃないですか、と、恭介はおれの顔をみるなりからかった。
 しらたきのように太い、けれど勢いのない雨が途切れることなくアスファルトを叩く窓の外を見て、「おれの行いがよかったことなんかないけどねー」と肩をすくめる。天気予報では快晴のはずだったのに、おれが恭介の家に着いた途端空が曇ってばらばら雨が降り始めたのだ。かといって帰るのもなんなので、酒を大量に持ち込んで泊まることにした。雨についてはヨシズミあてになんねえ、と眉毛の太い天気予報士のせいにする。たしかに肌寒かったから、久しぶりにモッズコートを羽織ってきたけれど、降るとは思いもしなかった。
「まあまあ、雨を見ながらお酒をのむ、ってのも風流でいいんじゃなーい?」
「日本酒ならそうですけどね」
 缶チューハイ片手に何言ってんですか、と恭介は笑った。おごってあげるから遠慮しないで好きなののんでいいよ、と言ったのだけど、首を振って手をつけようとせず、自分で用意したつめたい緑茶を飲んでいる。何も考えてない俺に呑まれるよりは先輩に楽しく呑んでもらったほうが酒も幸せなんじゃないですか、なんて言っていた。おれが酔いつぶれて迷惑をこうむるのは恭介なのに、そんなふうにやさしくおれを気づかってくれる。のめるけどあんまり好きじゃない、というのも勿論あるのだろうけど。
 恭介はやさしい。とてもやさしい。だからおれはいつも、甘えるのをやめるタイミングをずるずる逃してしまう。
「んじゃ日本酒買ってこよっか」
「賭けてもいいですけど、先輩一発で潰れますよ」
「まあねー」
 すこし笑って、スクリュードライバー(といっても缶の、アルコール分が一桁の甘いやつだ)をひとくちのんだ。おれがのめるのはこういうアルコール分の低い甘いお酒やビール、一部のワイン、といったところだ。同じワインでも赤はあまりのめなくて、すっきりとつめたい白のほうが好き。あまくてつめたい白ワインはとてもいい飲み物だ、と心から思う。自分では買わないから、藤見さんと食事に行ったときしかのめないけど。
「梅雨入りかなあ」
「んー……どうでしょうね。早すぎません?」
「でももう六月だよー?」
 六月は好きだ。雨が多いのはちょっと困るけど、好きな和菓子が出る(水無月というういろうみたいなものと、魚型に作ったどらやきのあんこを抜いて餅を入れたような若鮎というお菓子)し、夏が近づく。別に何があるわけでもないのにこんなに心が浮き立つ季節は、夏以外ないと思う。あのわけのわからないパワーみたいなものがすごく好きだ。
「もうすぐ夏だねー。合宿?」
「ですね。その前に風見鶏祭ですけど」
「あ、そっか。遊びに行くよ」
 風見鶏祭は千鳥ヶ崎高校の文化祭だ。幼いころから模山七夕祭という地元のおおきな祭に親しんできた生徒たちは、地域名門の進学校とは思えないくらいハメを外したバカ騒ぎをする。クラスの出し物は勿論、大会のない文化部はここぞとばかりに活動するので、下手な大学の学祭よりも派手な年があるくらいだ。サボってばっかりだったけど、準備期間から片づけまでとてもたのしかった。もうあの高揚感を味わえないのはちょっと残念だ。いいなあ、恭介はあと二回もできるんだよなあ。
 のみおわった缶をテーブルに置き、桃のお酒をとる。そろそろ手元があぶなくなってきそうなので、慎重に両手で包み込むようにして缶を支えた。
 酔いがまわるほどに、ふわふわと思考が綿にくるまれてゆく。胃の底からあたたかさが、雨ですこし冷えた全身にひろがっていって気持ちがいい。お酒をのんだときの、このぼうっとするようなあたたかさはすごくいいものだ。すごく懐かしいものに思えるのだけど、記憶をどんなにたぐってみてもわからない。なんなんだろう。お酒をのむたびに気になるのだけれど、一度も思い出せたことはない。今日こそつきとめてやる、とばかりに二缶続けて飲み干した。
 あったかい。ふわふわする。あったかい。くらくらする。あったかいなあ、あったかいとしあわせだなあ。なんでだっけ。なにかににてるんだけどなんだっけ。思いだせそう、とおもったところで記憶らしきものは指先をすりぬけた。ああ、アルコールがまわったぶんだけ、思考力が低下している。しまった、これはひどい誤算だ。仕方ない。いまのおれにできることといえばお酒をのむことくらいだと思うので、新しい缶に手を伸ばす。と、指先が恭介の手の甲にあたってはじかれた。なにすんだよばかー。
「先輩、頭ぐらぐらしてますよ。ちょっとひかえたほうがいいんじゃないすか」
「んー? んー。ちがいますよー? おさけねー、のみますから、だいじぶです」
「……」
 ため息をついて、恭介は無言でぽんぽんと枕を叩いた。寝なさい、のジェスチュアだ。やーだよー。おれもっとのむよー。びっと舌を出して、ハイペースで半分残っていた缶の中身を流し込む。
「こら、寝なくていいからこっち来なさい先輩。非体育会系の俺があなたを毎回布団に寝かせるという重労働を成し遂げているのはほとんど奇跡みたいなもんなんですよ」
「やー。ねるからやー。ねませんよー? せんぱいお酒のまないとですからねー」
「ほら、布団の上座って呑んでいいから、こっち来て下さい。昨日とりかえたから、すごくいいにおいしますよ」
「ほんと?」
「ほんと」
 寄ってみると、確かにお香をたきしめているようなあのいいにおいがした。匂い袋なのか本当にお香なのかはわからないけど、おれはこのにおいがすごく好きだ。おれが育った祖父母の家を思い出すから、というのもあるが、単純にこの甘いような刺すような不思議なにおいが好きなのだと思う。日本人のDNAに組み込まれてるんじゃないだろうか。缶を恭介に渡して、ばふっとベッドに飛び込むように寝転がった(思い切り飛び込むとベッドと違いスプリング皆無の畳にダメージを食らうだけなので、あくまでもように、である)。真っ白いカバーのかかったお布団に顔をうずめる。
「ふとんがふもっふもしますなあ」
「干しましたからね」
「せんぱいのためですかー?」
「まあ、そうですよ」
 ごろりと寝返りをうち、恭介の顔を真下からみあげた。さかさまの顔にむかってにへっと笑う。もっとも、かなり酔っ払っているから、もとから笑っていたような気もする。まあどうでもいいや。恭介やさしいなあ。
「ふこふこーふとんーきもちー」
「それはよかった」
「きょんちゃんえらぁい」
「お褒めに預かり光栄です」
 頭なでてほしいなあ、と思ったので、手を伸ばして恭介の掌をひっぱる。何をしているのか、と恭介は不思議そうな顔をしていたけれど、強引におれの頭に着地させるとわかったらしく「子供ですかあんたは」と苦笑しながらもちゃんとなでてくれた。雨の日らしい冷えた空気のせいか、恭介の手はとてもつめたくて気持ちがいい。
「きょんちゃんやさしーねー。だいすきー」
 やさしくしてもらうのが好き。甘やかしてもらうのが好き。おれにプラスになることをしてもらうのが好き。そういう、いつも通りの調子で、にこにこ笑う。
「はいはい、ありがとうございます」
 仕方ない先輩だなあとでも言いたげな顔で、恭介もいつも通り笑った。


Fin


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