26.ミヅ姉のこと



 

「ちょっとお、観月お姉さまが来たっつうのに酒の用意もないのあんたって子はもー」
「未成年の部屋に酒が置いてあるわけないだろミヅ姉……」
 限界まで牛乳で薄めたミルクティみたいな色のロングヘアをかきあげ、ミヅ姉は不満げに俺の部屋を見回す。姉、といっても実の姉ではなく(俺は一人っ子だし、こんな人が家族なんてちょっと嫌だ)ミヅ姉――観月は母方のいとこである。俺を奴隷代わりにしているぶんだけ、自分の妹には優しい。我侭さと理不尽さがレベルアップした凶悪版ちゅー先輩だ(先輩みたいに顔立ちが整っているわけではないけれど、自分自身に自信をもって行動するせいか、実際よりも美人に見える。いわく、「綺麗でいる努力を怠っていないのだから私は美人なのよ」だ。美人というのは才能なのかもしれない、とミヅ姉を見ていると思う)。先輩同様性格が悪いわけではないものの、喋っていると疲れるのであまり相手をしたくない。の、だが、何故だか最近よく家に来ては俺の両親と話し合いをしている。内容は知らないのでなんとも言いようがないが、とりあえず俺の部屋に来るのはやめてほしい。くつろいだり物を漁ったりするだけならまだしも、毎回のように読みさしの雑誌を置いていったり買い置きの菓子を食われたりして大変なのだ。
「何言ってんのよ、あんたこの前ものっすごい量の空き缶捨ててたじゃない。ま、あのご両親じゃ恭介が酒飲みになるのもわかるけどね」
「飲んでるのは俺じゃない。酒好きの先輩がちょくちょく泊まりに来るんだよ」
「あらまー。何? 彼女? あんたもそんなツラしてやることやってんのね」
「やってない。先輩は男。何でもかんでもそっちに結びつけるのやめろよミヅ姉じゃあるまいし」
「どういう意味よ。てーか、男? 何? あんたそういうシュミなの? 別にいいけど」
「俺はよくない。全然そういうシュミじゃない。勝手に人の性癖を決定するな」
 ミヅ姉のテンションは酔っ払ったときの先輩に近いものがある。性格は悪くない、悪くないが、とてつもなくタチが悪い絡み方をしてくるので体力を消耗することこの上ない。先輩なら勝手に酔っ払って勝手に潰れて静かになるから、素面でこれだけ面倒なミヅ姉よりもむしろ扱いやすいかもしれない(素面でこれなのだから、酔っ払ったミヅ姉のめんどくささは推して知るべし、だ)。あーもーめんどくせえ。何で俺の周りにいる年上ってこんなんばっかりなんだ。そういえばミヅ姉も先輩と同じ大学二年だった(留年はしていないが、一浪したので同い年である)。もしかして世の中の大学二年ってのは猫も杓子もこんなもんなのだろうか。いやいやまさか。
 この前泊まった時にちゅー先輩が置いていったチーズ鱈やスルメを見つけ出し、「なんでツマミがあって酒がないのよ、フルコースのサラダだけ出してるようなもんよこれは」などと訳のわからない文句を言いながら勝手に食べ始めた。俺の金で買ったものじゃないからもうどうでもいいや。先輩ごめんなさい、今度なんか買い足しておきます。
「……その先輩ってどんな人?」
「ああ? だから普通の先輩。ミヅ姉の期待には応えられません」
「そうじゃなくてさー。かっこいい?」
 ミーハー丸出しで声を弾ませた。多分本物の先輩見たらちょっかいかける気も失せるだろうけどな、と思いつつ、嘘をつかない程度に答えることにする。
「ん……まあ、綺麗な顔ではある。いつも笑ってるからどっちかっていうと可愛い系だけど、まじめな顔してればかっこいい……んじゃねえ?」
「訊かれてもしんないわよ。ね、じゃあ性格は?」
「お子様。我侭だし理不尽だし。たぶんあの人の辞書に『迷惑』って字はないな」
 普段聞かれることもないちゅー先輩の話を、ミヅ姉に乞われるままに話す。アポ無しで俺の家に来ては酔いつぶれるまで呑みあかすこと。おかげで毎回骨が折れる思いをして布団に寝かせていること。雨が降るたびに呼び出されること。降っていなくても気分で呼び出されること。二十歳で現役大学生のくせに携帯の使い方がいまいちわかっていないこと。ふんふんと聞きながら、ミヅ姉が表情から少しずつ笑みを消していった。
「……ねえ、恭介」
 スルメを齧っているくせに、妙に真剣な声だった。まじめな話をするならツマミを食うな、と思いつつも、気配に呑まれて「なんだよ」と訊いてしまう。
「秋くらいから、優真を恭介んちに預けようかと思ってんだけど」
「……優真を?」
 予想もしなかった言葉に、思わず鸚鵡返しで間の抜けた声を出してしまった。
 優真はミヅ姉の妹で、俺より三歳年下だから確か今年で中学二年になったはずだ。この傍若無人の権化ことミヅ姉とヒステリックな母親のどちらにも似ていない、気弱で大人しい子だ。多分、単身赴任しているという父親に似たのだろう。読みたいと言っていた本をミヅ姉経由で渡した時、電話が苦手なのにわざわざ携帯にかけてきて感想とお礼を述べてくれた良い子だ。俺を下僕と勘違いしているふしのあるミヅ姉とは、その時点でもう生物学的に違っているんじゃないかと思う。
「環境変えてあげないと、あの子ちょっとどうなるかわかんないから」
「いじめかなにか?」
「ううん。ほら、うちの母親がヒステリーババァじゃない? 来年受験だから、ってかなり追いまくられてて、家に帰りたくないらしいのよね。でも優真は私と違っていい子だから、図書室で勉強して帰ってくるくらいの時間稼ぎしかできないみたい。最近じゃご飯もあまり食べないし、食べてもすぐ吐き戻すようになってきちゃってる。だからちょっと家から出して、ゆっくり休ませようと思ったのよ。……預けることになっても、母屋に部屋借りるだけだと思うけど、でもね」
 言葉を切って、ミヅ姉が俺の目をまっすぐにとらえた。
「あんたの部屋に来てるっつう『先輩』の話聞いて、心配になってきたのよ。後輩の家に勝手に押しかけて来ちゃ酒びたりで、あんたに世話されっぱなしで、……その人まともなの?」
「んだよそれ」
 抑えろ、抑えろ、ミヅ姉に本気で逆らってもいいことなんかない、そう必死に理性と経験が叫んでいる。けれど声が刺々しくなるのをどうしても堪えることが出来ない。自分がミヅ姉の目をにらみかえしているのが、鏡を見なくてもわかった。
「私が優真をここに預けようと思ったのは、いい環境で静かに休んでもらいたいからよ。でもそんなアル中みたいな変な人が出入りしてるんじゃ考え直した方がいいかもねえ。後輩に迷惑かけ放題のうえに常識もなさそうだし、優真になにかあったら――」
 ダンッ、と、自分でも驚くほどの音がして、ミヅ姉の言葉を遮った。
 かたく握り締めた右の拳が痛い。壁を破壊するほどの腕力がなくてよかった、と、文化系な肉体に心から感謝した。それから、女性を殴らない程度には残っていた理性にも。
「先輩はアル中でも変な人でもない。人に甘えるけど、迷惑はかけない。優真に何かすることも絶対にない」
 先輩の辞書に『迷惑』の二文字はない、と思うのは本当だ。だけど、洒落にならないような迷惑をかけてくるほどモラルのない人じゃない、とも思う。アポ無しで押しかけてくると言っても大体来る日と時間帯は決まっているのだから、正確には約束をする必要がないだけだ。酔っ払いの介抱は親戚連中の集まりで慣れているし、そもそも先輩は笑い上戸になってテンションが上がりやたらまとわりついてきたり好き好き大好き連発したりキス魔になったりするだけなのだから、絡み酒の伯父や泣き上戸の従兄たちに比べればずっとラクだ。
 つまりは先輩にかけられる迷惑なんて、迷惑、と呼ぶほどのものでもないのだ。逆に言えばそのくらいしか心を許されていないというか、頼られていない気もして、少し寂しくもある。
 口が悪いのはいい、俺に使えないだのなんだの言うのもいい。当然の如く下僕扱いされるのも慣れた。
 だけど会ったこともないくせに先輩に何てこと言うんだよ。何も知らないくせに。先輩がどんな人だか知りもしないで貶しやがって。
「謝れよ、ミヅ姉」
 怒ると声が低くなる、というのは、こうして感情を殺しているからつられておさえこまれるのだな、と、唐突に思った。もう少しでミヅ姉を殴りそうになる腕を、壁に押しつけて堪える。
「……悪かったわよ」
 視線を外し、言った。たった一言なのに、自分でも意外なほどに急速に怒りが冷めていく。あ、ああ、と馬鹿のように答えながら、腕を下ろした。十六年とちょっと生きてきた中で、ミヅ姉に謝ってもらったのは初めてのことだから、なんだか調子が狂う。
「会ったこともないのに言い過ぎた。ごめん」
「いや……うん、まあ、そうなんだけど」
 俺も謝ろうか、と思ったけれど、何一つ謝るようなことはしていないので困った。だってちゅー先輩のときと違って別に殴ってないし。暴言も吐いてないし。歯切れの悪い答えに呆れたのか、こつん、とミヅ姉が俺の額を叩いた。
「なんかイラッとする子ねえあんたは。ま、いいか。恭介がそんなにかばってるし、いい人なんでしょ、きっと」
「……俺が言うのもなんだけど、基準それでいいわけ?」
「いいに決まってるじゃない」
 先ほどまでのにらみ合いなんて一切なかったかのような、晴れやかな顔でミヅ姉は笑った。
「あんたが誰かのこと悪く言われて怒ったの、初めて見た。それだけで充分すぎるわ」
 ツッコミをいれる気力も失せるほどいい笑顔だったので、そうですか、と俺も脱力気味に笑って応じる。
 ふと、半月ほど前、相沢に先輩を殴ってしまったと相談したときのことを思い出す。確かあのときも似たような会話があった。
(初めてなんだ。あんなにいらついたり、人を殴りたくなったり、そういうの全部)
(取り乱して相手殴るくらい他人を心配する恭介とか想像つかないけど、ようするに、それくらい大事な人ってことじゃねえの?)
「……」
 俺、意外とちゅー先輩のこと大事にしてるのかなあ、と、初めて気づいた。



Fin


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