28.祖父のこと



 

 まわりを一目みて、おれは自分が夢の中(それもとびきりひどい悪夢)にいることに気づいた。
 なぜならば、ここはとっくの昔に無くなった祖父の家だからだ。おれは四歳から中学卒業までここで暮らしていた。望めば今でもここに住むことができただろう。藤見さんに頼めばそうとりはからってくれただろうし、おれが家を売ることを決めたときに一番残念そうな顔をしたのもまた藤見さんだった。どうしてですか、と、あの落ち着いた声にあわい寂しさをにじませておれに訊いた藤見さんに、「ここは祖父の家だから」とだけ答えた。どういう意味なのか、藤見さんならわかってくれただろう。
 窒息しそうだったのだ。この家にいるあいだ、おれはいつでもすこしだけ死んでいた気がする。
「遅かったな」
 あ、と思う間もなく、おれは学ラン姿になっていた。今よりもさらに背が低くて、手も足も細い。子供の細さ。中学一年のときのおれだ。こわごわとふすまの向こうの祖父をうかがい、それから深呼吸して気合をいれると、笑顔を作って祖父のいる和室に入った。
「ただいま帰りましたー」
「どこか寄り道でもしていたのか。門限を過ぎているぞ」
 当時のおれは、祖父の厳しさが親のない子供だとばかにされないようにという一種の愛情なのだ、ということが理解できる程度にはおとなびていた。けれど、理解できたからといって、それをありがたがって受け取れるほどではなかった。抹香くさい説教は耳にたこが出来るより前に聞き流し方を覚えたし、地味な味付けの献立(祖母が死んでからはおれが作っていたため、余計にめんどうだった)に飽きて学校帰りに買い食いをすることもしょっちゅうだった。買い食いは中学のむだにこまかい校則と祖父の言いつけによって二重に戒められていたが、そんなものを守るおれではない。
 生まれつき明るい髪の色と顔立ちのせいで、閉鎖的な田舎社会で不良だといわれのない中傷を受けてはならない、と思っていたのだろう。そんな祖父の心遣いをぐしゃぐしゃと踏み散らかすように過ごしていたおれは、田舎の基準では充分不良だった。不良といってもかわいいものだ。買い食いに深夜徘徊に煙草、エトセトラエトセトラ。喫煙はさすがにまずかったかなあ、と思うが、そもそも髪の色だけで不良とみなされるような町だったのだから、喫っていようが喫っていまいがおれにたいする評価は変わらなかったような気もする。
「やだなあ、今日は委員会の日ですよー」
「……ああ、そうか、水曜日は委員会だったか。悪かったな」
 咳払いでばつの悪さをごまかす祖父に、いえいえと手を振る。実際、委員会なんてないのである。ないのだが、そういうことにしてあった。祖父に余計な心配をかけないように、帰りが遅くなっても大丈夫な日を作っていたのである。もっとも、素行不良でたびたび学校に呼び出されていた祖父のことだから、薄々そんなのは嘘だと気づいていたかもしれない。なんて中途半端なだったんだろう、おれは。自嘲を混じりけのない笑顔にすりかえて、「晩ご飯つくりますね」といつのまにか持っていたスーパーの袋を示した。
「いや、今日は私が作った」
「あれ、そうですか」
「冷めているからあたためなおしなさい」
 ああ、夢らしいな、とおれは微笑んではいと答える。
 完璧主義者の祖父はその性格に相応しく何でも出来たけれど、なぜか料理だけは何度やっても下手くそだった。昔かたぎの人だから、きっと心のどこかに「男子厨房に入らず」の一文がひっかかっているのだろう。だから大抵食事はおれが作っていた(そのせいでおれは祖父の好みの和食しか作れない)。祖母が死んだ後、おれがいなかったらどうする気だったのだろう。
「いただきます」
「ああ、どうぞ。私は先に休ませてもらう」
「はい、おやすみなさい」
 せっかく会えたのになあ、と思いつつ、これが夢の決定ならどうやったって祖父は戻ってこないだろう。あたためなおしたぶり大根をかみながら、まあいいかと諦めた。夢の展開をえいやっと力技で修正できるほどの強靭な精神力は持っていない。
「……おいしい、なー」
 ためいきをついた。おいしい。おれが作ったのと同じくらいおいしい。おいしいぶり大根なんて、あの祖父が作れるわけないじゃないか。どうせ夢なら細いところまでちゃんとやれよ、と自分の無意識に八つ当たりした。
 一度だけ食べたことのある、焦げて塩辛いたまごやきを思い出す。うまくいかなかったらしく、台所に隠すように置いてあったのを見つけて齧ったのだけれど、思わず咳き込むくらい辛くて苦くてとてもとても食べられたものではなかった。おれの咳をききつけてやってきた祖父に「そんなごみを食べるんじゃない」と酷く叱られたっけ。これ好きです、と言ったのに、子供が気を遣うんじゃない、とまた怒られて、それ以来料理を作ってくれることはなかった。
「たまごやき、食べたい、なあ」
 箸の先をかみながら、あのひどい味を思い出してみる。もう十年は軽く昔のことなのに、ちゃんと思い出せるくらいまずい。
 涙が出るくらい辛くてまずかったけど、だけど、おれはそれでも祖父の作ってくれたたまごやきが食べたかった。ちゃんとした、誰かがおれのために作ってくれたごはんを食べたかった。
「夢のなかでまでまずいもん食いたいとかマゾかよ、おれ」
 泣かないように、唇をひんまげてむりやり笑った。泣いたってなんにもならない。泣いたっていいことなんか起こらない。泣いたぶんだけおなかもすくし、誰も優しくしてくれやしない。さあ笑え、おれ、笑えよ。あれ、でもこれ夢なんだよな、じゃあべつにむりやり笑わなくたって大丈夫なんじゃないのかな。いやいやだめだ。そうやって気を抜いてたら、また笑い方を忘れる。おれはばかだから忘れてしまう。大事なことでも、どうでもいいことでも、等しく。
 寂しさが急激に心臓の近くに流れ込んできて、膝頭が震えた。箸とお椀を持っていられなくなって落とすと、机に落ちて硬い音を立てる前にすいっと消えた。そこに真っ黒い穴が開いて、部屋が掃除機で吸い取るみたいにぎゅるんと渦を巻いてなくなってしまう。宇宙のはじまりみたいなわけのわからない空間にひとりで取り残された。体まで飲み込まれそうな気がして、粟立った二の腕をさする。歯の根が合わない、寂しい、こわい、寂しい、暗いよ、誰か、誰か、誰か!
 もうひとりぼっちになるなんていやなんだ。置いていかれるなんてそんなの絶対いやなんだよおれは!
「……、っ」
 名前を呼ぼうとして、唇を噛む。今おれは誰の名前を呼ぼうとした?
 だめだ、だめだ、首を振ってしゃがみこみ、必死に口を押さえる。彼はだめだ。おれは彼に頼ってるわけじゃない。彼に甘えて構ってもらっているだけだ。そうだろ、しゃっきりしろよおれ、彼に頼るな、おれは人に甘えるだけだ。頼ってはいけない、頼ったら、彼がおれにとって必要な人になってしまう。違う、大丈夫、おれはひとりで大丈夫。大丈夫。大丈夫だってば。
 だめだ、だめだ、と思うそばから涙がにじんできた。ぎゅっと目を閉じると、瞼に押し出されて頬をすべっていく。あ、泣いちゃだめじゃんか、とあわてて学ランの袖でぬぐおうとする一瞬前に、頬っぺたにおれのじゃない手が触れた。ひんやりした、けれど安心する体温がじんわりと伝わってくる。音の無い闇が現れたときと同じくらいの速さで溶け去って、おれはようやく、夢から覚めた。
「……い、先輩?」
「っ、……」
 かたく瞑っていた目を、ゆっくりと開けた。恭介が、いる。すっかり馴染んだ天井の色は恭介の部屋のもので、ああ、おれ、ちょっと酔って寝ちゃった、かな。夏の暑さも手伝って変な酔い方をしたんだろう。いま何時だろう。わからないや。目だけで自分の服を確かめると、確かに詰襟の学生服ではなく、ぐしゃぐしゃに皺の寄っているオレンジのTシャツが見えた。大丈夫だ、さっきまでのはただの夢で、ひどい悪夢だったけれど、とにかくもう覚めている。頭が痛い、気持ちが悪い。いつも通りのだるそうな顔にすこしだけ安堵をにじませて、恭介は「大丈夫ですか」とポカリスエットを渡してくれた。大丈夫、といいたいのに、声が出ない。喉がからからに渇いているからだ、ということに気づいたのは、ペットボトルの中身を一気飲みしてからだった。
「……大、丈、夫」
 潤ったはずなのに、意識と実際の発声とに衛星中継くらいのタイムラグがある。口許をぬぐって、なんとか笑ってみた。笑え、おれ、笑わないと。顔の筋肉は思ったとおりに動いたのに、恭介の眉間にかすかにしわが寄った。
「には、見えませんが」
「へーきへーき。おればかだし、風邪とかひかない、し」
「……」
 ためいきをついて、恭介は行ってしまった。さすがに付き合いきれない、と思ったのだろう。このまえ風邪を引いたおれに迷惑をかけられた恭介にしてみれば何言ってるんだって話だろうし、そもそもこれ風邪じゃないんだから、この理屈はどう考えたっておかしいよ、なあ。
 蓋をしめたペットボトルを喉にあてると気持ちよかった。酔った体の熱をすべて吸い取ってくれるようなつめたさに、いままで見ていた夢も一緒に消えていくような錯覚を覚える。
「先輩」
「んー?」
 なに、というよりも早く、しめった感触が落ちてきた。う、うあ、なにこれ。疑問を察知したかのように、恭介が言った。
「濡れタオルです」
「う、うぇ」
「汗すごいし、拭いたほうがいいですよ」
 言われて初めて、着ているシャツがびしょびしょになっていることに気づいた。だめだ、頭がちゃんと働いていない。こんなしぼれるくらいの汗に気づかないなんて。
「俺の中学生んときの服出しますから、着替えてください。どうせこのまま泊まりますよね? 洗濯しときます」
「え、わるい、よ」
「ほう。先輩は俺をぐったりしてる人を汗だくの服のまま放り出す人でなしにしたい、と」
「……ごめん、ね。ありがと」
「今更ですよ、先輩。それに、俺が人でなしになりたくないだけなんで」
 しょうがないなあとでも言いたげな顔をして恭介が戻ってきた。確かに、おれが恭介に迷惑をかけているのは出会ったときからずっとだ。
 上体を起こして、着替え用のTシャツを受け取る。もう大丈夫、ということを示すために、またにっこり笑ってみせた。
「あ、ありがと、う」
「いーええ」
「……、」
 いつもとおんなじセリフを口にしようとして、ふと唇が止まった。さっき夢の中で呼ぼうとして必死にこらえたのを思い出したのだ。
 いや、大丈夫だ、と自分にいいきかせる。大丈夫、恭介はおれが甘える相手であって、断じて、頼っている相手ではない。だからおれはたとえ明日から恭介と会えなくなってもへらへら笑える。恭介は、おれにとって必要不可欠な存在では、ない。
 中途半端にひらいた口に不思議そうな顔をしながらも、おれが言いたいことしか言わない人間だと良く知っているので、恭介は続きを催促しようとしない。ただ、じっとおれの顔を見ている。それに勇気付けられて、おれはやっと「いつもとおんなじセリフ」を言うことができた。
「恭介くんやっさしー。だいすき」
 ぐしゃりと頭を撫でられて、えへへと屈託なく笑う。今度はうまくできたようだ。その証拠に、恭介もやれやれといいたげな顔で笑い返してくれた。
「はいはい」
 その笑顔に、心臓がつぶれそうなくらい痛む。
 だいすき、という言葉に特別な意味はない。おれの「好き」は安いから、誰にでも何にでも言えるし、何回だって言える。それらと全く何も変わらない。変わるわけもない。
 そう自分に嘘をつくのもそろそろ無理な段階に来ているらしいということを、けれど、おれはどうしても認めたくないのだ。



Fin


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