31.買い出しのこと



 

 七月に入った途端、急に陽射しが痛くなった気がする。じりじりと肌が灼ける音が聞こえそうな夏本番の暑さに比べればまだ大人しいほうだが、暑さに弱い俺にとってはちょっとつらい。
 でも夏は嫌いじゃない。夏、というだけで、なんとなく楽しいことがある気がしてくる。
 最近買った三浦しをんのエッセイを半分まで読みすすめたころ、肩を叩かれた。顔を上げると、今日の待ち合わせの相手が立っていた。赤いセルフレームの眼鏡を中指で押し上げ、青木さんは肩をすくめる。
「辻くん早いねー。五分前に来たのに負けちゃった」
「や、俺もそんな待ってないから」
 本当は三十分前に来ていたので結構待っている。
 俺も待ち合わせの五分前に来るつもりだったのだが、昨日の夜相沢から電話が来て、「三十分前には行けよ! 女の子待たせんなよ!」としつこく念押しされたので、暑い中やる気ゲージがだだ下がりしながらも言われたとおりにしたのだ。まあ、人を待たせるより自分が待つほうがいいし、普段ちゅー先輩にいやと言うほど待ちぼうけを食わされているので、この程度じゃ大して気にならない。何せあの人は連絡こそするものの、一時間遅刻するのがデフォルトなのだ。
 生成り色のワンピースとグレーのカーディガン、ローヒールのサンダル、という大人っぽい格好のせいか、見慣れているはずの青木さんが普段と違って見える。同学年の女子と私服で会う機会がないから、余計に新鮮味があるのかもしれない。
「あ」
「え? 何? なんか変?」
「いや、髪おろしてんだ、と思って」
「え、うん」
「みつあみもいいけど、それも似合うね」
 ゆるくウェーブのかかった、肩少し過ぎのセミロングはなんだか江國香織の小説に出てくるヒロインのようだ。あくまで俺のイメージだが。
「え、そ、そう、かな」
 青木さんが手で髪をおさえながら、はにかむように笑った。
「辻くんも私服かっこいいよ」
「あー、どうも」
「っていうか、意外だねその格好」
 何故普通にシャツとパンツで来ただけで驚かれなければいけないのか。たしかに、母親には出がけに「あら、バーテンダーのバイトでも始めるの?」などと訊かれた(多分ベストのせいだ)が、以前相沢と出かけた時に「似合ってる」と言われたので、すくなくともおかしくはないはずである。
「普通だと思う」
「や、そうなんだけど、てっきり和服で来るかと」
「和服……」
「それか特攻服」
「待って、青木さんの中で俺って一体どうなってんの?」
 なんなんだその極端な二択は。
 大体、俺は顔が怖いだの雰囲気が怖いだのとにかく怖いだの言われるが、別に不良顔ではない、はずだ。相変わらず俺は自分ではどこがどう怖いのかよくわからないので、不良顔ではない、と断言することは出来ない。
「……まあ、暑いし行こうか。最初どこ?」
「えーっと、待って、今メモ出すから」
 何故こんな暑い日、しかも土曜日に俺が外出しているのかと言えば、レジ俺の買い出しなのである。
 衣裳に使えそうな安い布地を売っている店を、青木さんの案内で二、三軒回る予定だ。最初は青木さん一人の予定だったのだが、地元なんだから荷物持ちしにお前も行ってやれよ、と相沢に言われて(相沢は電車通学だ。五駅か六駅向こうである)付き合うことになった。どうせ先輩も来ないし、行きたい企画展もないから、と承諾したものの、こうも暑いと少し後悔したくなる。こんな機会でもなければ可愛い女の子と歩く機会なんかないだろ、と言われたが、大きなお世話だ。
 それにしても、相手が青木さんでよかった。放送部を筆頭とする、他のレジ俺メンバー(というのはハイレベルな変人というのと同義だ)だったら話が通じるかさえ疑問である。最近は地が出てきたらしく少々普通とはズレている部分もあるが、基本的には本の趣味が似ていて話しやすい、いい友人である。
「最初はね、えっと、ミスドの近くなんだけど」
「え、大通りのミスド? ジャスコの近くのミスド?」
「ジャスコの。そこから奥入って五分くらいかな」
 青木さんの言った店は歩いて二十分程度のところだった。本屋と図書館以外あまり興味がないので、そんなところに洋品店があることさえ知らなかった。女の子というのはすごいな、と妙なところに感心してしまう。世界の広さが俺とは段違いだ。美術館やプラネタリウムを見に行くことはあるけれど、同じところばかりだし。
「青木さんて休日どうしてんの?」
「わたし? えーと、友達と遊びに行くとか、お菓子作るとかかな」
「へえ……なんかすごく女の子っぽいなあ」
「辻くんは?」
「俺? 家で小説読むとか、美術館行くとか、それくらい」
 夏の美術館やプラネタリウムは子供が増えてすこしうるさいが、あまり子供の来ないメジャーを外れた場所を知っているので、そこまで困ることもない。
 あとは相沢たちや先輩と遊ぶくらいのものだろうか。言葉にするとかなり簡単だが、俺なりに充実している。特に先輩を構って遊んでいるとなかなか楽しい。一緒に星を見たり喋ったりするだけでも面白いように時間が過ぎていく。
「わ、美形カップルだ」
 青木さんが声をあげた。つられて視線を追うと、確かに綺麗な女性が立っていた。傍にはやはり似合いの男性も……男性?
 女性よりも十センチほど背の低い、やわらかそうな茶髪と子供っぽい笑顔の持ち主。どう見てもお馴染みの人である。
「先輩だ……」
 いくら地元が同じだからといって、この遭遇率は何なのか。かといって、本人に訊いても「運命じゃない?」だとかふざけた答えしか返ってこない気がする。
「え、知り合い?」
「天文部のOB。見たことない?」
「あ、わたし、去年のOBOG会出てないから」
 ぼそぼそ喋っていると、顔を上げた先輩が俺に気づいた。手をあげて近寄ってくる。
「なーにー恭介くん、もしかして彼女とデート中?」
「その言葉、先輩にそっくりそのままお返ししますよ」
 先輩と一緒にいる、ということは多分大学生なのだろう。抑え目の化粧と淡いピンクのワンピースが落ち着いた感じで、先輩と並んで立っていても引けをとらない美人だ。一緒にいすぎて忘れていたが、先輩だって俺よりは相沢側の人間である。彼女がいると聞いたことはないが、いない、とも言っていなかった。
 平々凡々な外見の(言うまでもなく中身も平凡だが)俺と一緒にいるより、綺麗な彼女と歩いている方がずっと自然だ。
「んー? いやあ、友達友達。サークル一緒で地元も一緒。ねー」
「ねー」
 にこりと笑って先輩に合わせる表情は、意外と子供っぽかった。似たもの同士なのかもしれない。
「あ、そうなんですか」
 なんとなくほっとした。
 青木さんが挨拶するタイミングを逃して困っているようなので、「先輩、天文部の青木さん」と簡単に紹介する。
「青木桜子です。はじめまして、先輩」
「はじめましてー。やー、こんな可愛い彼女がいたなんて、恭介くんやるじゃん」
「やめてくださいよ……」
 俺なんかの彼女だと思われたら青木さんが可哀想だ。それに、俺は人に恋愛的な意味で好意を持たれるのが苦手なので、彼女を作る気は全くない。今まで何度か告白されたこともある(俺のどこがいいのか全くわからない)が、全部断った。多分、青木さんは初めて出来た女友達である。
 話し込みそうな気配を感じたのか、青木さんが袖をひっぱる。
「そろそろ行かないと。結構時間かかると思うし」
「あ、そうか。じゃ、先輩、また今度」
「ん、じゃあねー」
 声が震えているような気がして、俺は振り返った。
 けれど、先輩はいつも通り笑っていたから、多分錯覚なんだろう。


Fin


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