32.出会ったときのこと



 

「すみません、遅れました」
 座敷席であぐらをかいたまま声のほうに振り向くと、なんだかでかいのが息を切らしていた。
 この夏の暑さのなか走ってきたのだろう。そのくせ汗はかいていない。体温の低そうな肌の色だ。手が大きくて薄っぺらい。スポーツで削いだような鋭さはなくて、背が伸びるスピードに肉がついていかなかった、そんなかんじだ。頭を撫でられても気持ちよくなさそうなてのひらをしている。
「でけー! こえー!」
 考えるよりも先に指をさして、言った。
 第一印象はさぞかし悪かったことだろう。案の定、彼はまじめな顔をかすかにゆがめてから、おれの隣に座っていたゆっちゃん(おれのふたつ下だから高三だ)にさらりとひどいことを言った。
「高砂先輩、子供の躾くらいしたらどうすか」
「うーん、自分より年上の子供はさすがに産めないな」
「え? 年上?」
 今まで見たことがない子だから、今年入った一年生なのだろう。それにしてもでかい。顔が怖い、というか、全体的に雰囲気が怖い。でも不良とか、そういう格好つけたタイプの怖さじゃない。何するかわかんない、っていう、ぞっとするような怖さでもない。抜き身の日本刀を目の前に置いておかれたらこんなふうに背筋がのびるだろうな、と思わせる、しんとしたつめたさ。
「この人、ちゅー先輩。私より二つ上だよ」
「どーもー、こうみえて大学二年でえす。シクヨロ」
「古っ! シクヨロって古ッ! 先輩顔可愛くてもさすがに限度ってものが!」
「エーゆっちゃんひどーい。ぴちぴちハタチになんてこと言うのー」
 ゆっちゃん(とずっと呼んでいたので覚えていなかった。そういえば高砂って名字だったなあ、この子)に紹介されるがまま、へらりと笑っておどけると、ほんのすこしだけ瞼を動かして(驚いたらしい)頭を下げた。
「……失礼しました。一年の辻恭介です」
「いーよいーよ気にしないでー。恭介くんね、よろしく」
 初対面の人に年齢を間違われることには慣れているから、特に気分を害することもない。こんなことでいちいちイライラしていたら、平日に街中なんか歩けないのだ。免許証を出してもまだ信じられないと言いたげな顔でじろじろ見てくる補導員だっている。それにくらべて、謝ってくれたぶんだけいい子だ。
「空いてるとこないし、隣おいでよ」
「ああ、はい、失礼します」
 突っ立ったままだった恭介に座るよう促すと、もう一度頭を下げてからおれの隣に膝をそろえて座った。緊張しているからではなく、いつもそうしているから正座した、というような自然な仕草である。しつけの行き届いた家で育ったんだろう。おれも一応厳しい祖父の家で育ったから最低限のマナーはあるはずだけれど、彼のようにすっと動くことは出来ない。育ちの良し悪しではなくおれの性格の問題だ。
「えーっと」
 話しかけようとして恭介が言いよどんだ。「ちゅー先輩だよん」とチューハイを飲みながらにっこりすると、はあ、と面食らったような顔でうなずく。
「さっき、失礼なことばっか言ってほんとすみません」
「いーっていーって。まーまーぐいっといっちゃえぐいっと」
 空いたコップにビールを注いで渡すと、いや、とてのひらを向けて拒まれた。まじめだなあ。おれはこんな外見だから二十歳になるまで外でのんだことはなかったけど(今も面倒だからあまり外ではのまない)、彼のように実年齢より上に見える顔立ちをしていたら十六歳の時でも迷うことなくコップを受け取ったと思う。
「や、俺未成年なんで、外ではちょっと」
「あはは。外じゃなきゃいいんだー」
「まあ、家の中とかなら。ってもあんま好きじゃないですけどね」
「ふーん。おれは好きだよー。お酒大好き」
 行き場をなくしたビールを喉に流し込んで、笑った。好きじゃないってことは嫌いでもないんだろうし、空気読んでのめばいいのに。おれのこと甘やかしてくれそうにもないし、テンション高くもなさそうだし、それになんだか不用意に触ると大怪我をしそうで気軽に声をかけづらい。
「えー、と、なんて呼んだらいいかなー」
「あ、恭介で」
「えー? あだ名がいいなー」
「すみません、俺、そういう面白いものないんです」
「あだ名って面白いかな……その発想の方がおもしろおかしい気がするけど」
 人を名前で呼ぶのはあまり好きじゃないけど、仕方ない。
 隣にいる以上、ぽつぽつと話はするのだけれど、共通の話題がないからすぐに途切れてしまう。口数の少ない相手と喋るのは苦手だ。
 空白を埋めるようにハイペースでお酒をのむうち、いつもよりもずっと早く酔いが回った。いつものふわふわと気持ちのいいものではなくて、ひたすら苦しくて気持ち悪い、最低の酔い方である。自業自得とはいえ結構つらい。
「ううー……」
 座敷席でよかった、と思いながらごろりと寝転ぶ。天井を見上げるとまぶしくて余計に気持ち悪くなったので、横を向いて丸まった。胃の中で水音がしているのが聞こえる。なんだか、吸収しきれなかったアルコール類が渦を巻いて逆流してきそうだ。目を閉じてじっとしていると、コーラを啜っていた恭介が気づいて声をかけてくれた。
「先輩、大丈夫っすか?」
「……きもちわるい……」
「あー、恭介くん、その人いつもそうだからほっといていいって。ほら、お好み焼きそろそろ焼けるよー。構ってると食べそびれるよ?」
 誰かの声に、そうだそうだ、と既に酔っ払っているらしい(いやおれが言えた立場じゃないけど)野郎軍団の囃し声が重なる。アイドルのライヴ会場かよここは、と思うくらい絶妙なタイミングの合いの手だったが、あいにくつっこめるほど体力も気力も残っていない。しかし確かにおれが酔っ払っているのは毎度のことなので、構わなくてもいい、という気持ちもわかる。
「や、いいっすよ。俺の分、宮村先輩食ってください」
「えー、いいの? だってこの店さあ……」
「いいですって。えっと、ちゅー先輩、立てますか」
「うー……」
 立てる、と言おうとしたのに、頭が重すぎて口を開くどころか首を振ることすらできやしない。どうにか髪が揺れる程度に意思表示をした。伝わるかな、と不安だったけど、恭介はちゃんとわかってくれたらしい。
「立て……なそうですけど、肩貸しますから立ってください」
 身長が違いすぎてうまく肩を借りられなかったけれど、ふらつく足でなんとか歩く。トイレまで連れて行ってくれる手際を見ながら、酔っ払いに慣れてる子なのかな、と思った。それにしても、どうしておれの面倒なんか見てくれるんだろう。こんなめんどくさそうな先輩、しかも他の人がほっとけって言ってるようなやつを、わざわざ構ってくれた。これが本当に話しかけても話しかけても反応の薄かった子と同一人物なんだろうか。
(すずしー……)
 冷房の効いている店内の方が涼しいはずなのに、何故かそう思った。細く開いた窓から吹き込む風のおかげかもしれない。お好み焼き屋は鉄板が目の前にあるから冷房も効きづらいし。ふう、と息をつくと、忘れていた吐き気も一緒に戻ってきた。うわ間に合わねえ、と思うよりはやく、恭介がおれの口を手でおさえる。
「もうちょっとだけ辛抱してください」
 個室に入る一瞬前、我慢しきれずに恭介の手の中にすこしだけ吐いた。ごめん、という余裕もなかったけれど、恭介は気にしたふうもなく、反対側の汚れていない手でおれの背中をさすってくれる。
 便器の水が吐瀉物で濁っていくのを見ていたら、余計に吐き気が襲ってきた。
「うぇッ、う、ぐ」
「……我慢しないほうがいいですよ」
 おれの背中をさすりながら、恭介が静かに言った。んなこと言われたって、勝手にがんがん何も考えずにのみまくった挙句、初対面の後輩の手に吐いたとか、ちょっと、いくらなんでも格好悪すぎるじゃないか。とはいえ、気合でどうにかできるレベルはとっくに過ぎているので、素直にもどした。
 半分くらい液体だったおかげで、吐くこと自体はそこまで苦しくない。胃液と酒の混ざったものが、ポンプのように動く喉から吐き出されてくる。口の中がすごい味だ。普段はいちおう気持ちいいところまでで飲むのをやめてるから、こんなふうに吐くまで酔ったのはひさしぶりすぎて、どうすればいいか忘れた。あったかくてふわふわした気持ちになるまで飲んでから、ごろっと寝転がって眠る。お酒の飲み方はそれしか知らない。
 うすっぺたい掌にさすられながら、祖父母のことをぼんやり思い出す。こんなふうにおれの面倒を見てくれる人は、あのふたりしかいなかった。風邪を引くたび吐いていたおれに、夜中まで寝ないでついていてくれたっけ。ニコニコしながら「いっぱい吐いたほうが早く治るから気にしないの」なんて言ってくれた。
 もう随分昔の話だ。
「はぁ……」
 胃の中身が殆ど出たのか、わずかに名残で色のついた唾液しか出てこなくなった。
 吐きつくしたらすこし気分が良くなった。まだ頭は痛いしうまくものを考えられないけれど、とりあえず一番悪いところは脱したらしい。
「もう大丈夫ですか」
「……うん」
「じゃ、口ゆすぎましょう」
 水を流し、洗面台で口を何度もゆすぐ。吐いた後はいつも、水道のぬるい水がやけに甘く感じる。田舎の井戸水ってもっと甘いのかな。
 一息ついて隣を見ると、恭介も手を洗っていた。ハンカチを忘れたのか、シャツのすそでごしごし拭いている。意外と大雑把なのかもしれない。手の汚れの原因を思い出し、あわてて謝る。
「さ、さっき、ごめん」
「え? あー、いいっすよ。慣れてます」
「……ありがと」
「いいえ。急性アルコール中毒とかじゃなくてほっとしましたよ」
 そう言いながら、恭介は手を伸ばしておれの首筋に触れた。ぺたりとくっつけられたてのひらは、思っていたより冷えている。気持ちいい、と頬っぺたをおしつけて、肩口で軽くはさんだ。最初に見たときにイメージした通りの、つめたくてなめらかな皮膚。でも、想像よりずっといい手だ。第一印象、そこだけ間違えたな。
「手ーひんやりしてるー」
「水でがーっと冷やしただけですけど」
「でもきもちー」
「喜んでいただけて光栄です」
 恭介がはじめて笑った。
 あまりにびっくりしたから、おれは一瞬笑うのを忘れてまじまじと顔を見つめてしまった。この子笑うとこんな顔になるんだなあ。ずっと笑ってればいいのに。
「……どうかしました?」
「あ、いや、ううん」
 そのあとしばらく、おれの具合がよくなるまでとこじつけて、おれと恭介は男子トイレで涼んでいた。何も言わずにただ黙っているだけだったけれど、さっきまでと違って全く気まずくない。
 細く開いた窓から吹いて来る風に髪をなぶられながら、この子と近いうちにまた会うにはどうすればいいかな、とおれは考えていた。
 恭介が何を考えていたのかは知らないけど、同じようなことならいいな、とも、思った。


Fin


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