34.叶わぬ恋のこと



 

 別に天気予報を見なかったわけではない。
 ただ、降水確率三十パーセントの文字に、どうせ降っても小雨だろうとたかをくくっていたのである。それが実際に降ってみたら、うだるような暑さをふきとばす雷雨だった、というわけだ。畜生ヨシズミめ、こんなすごい雨降るんならもっとちゃんと予報してくれ、と都知事の息子に心の中で八つ当たりをする。ちなみに俺が毎朝見ている天気予報コーナーに彼は出てこない。
 一応一時間ほど図書室で時間を潰してみたのだが、雨は止む気配もないどころか勢いを増しつづけている。台風でもきたんですかとききたくなるほどだ。これ以上雨脚が強くなってはたまらない、と強行突破を決心したものの、実際に昇降口まで来るとやはりためらう。鞄を犠牲にするか、それとも自分を犠牲にするか、かなりの悩みどころだ。
「よっ、まーだ残ってたんか」
 後ろから肩を叩かれ振り向くと、相沢が能天気に笑っていた。とはいっても、俺が女子だったら一目惚れするかもしれないな、と思う程度には格好いい。イケメンというのはもう死語なのだろうか、それともまだ使える言葉なのだろうか、と疑問が浮かんだ。まあ、相沢はどちらかといえば漢字で「綺麗」と書いたほうが似合うような顔だが。
「まあな。相沢こそまだいたのか」
「おうよ。天文部室で青木ちゃんと喋ったり知り合いの手伝いしたり、色々してたからさ。一緒に帰ろうぜ」
「帰れるもんなら……」
 力なく外を指差す。なんだかこのまま出て行って打たれながら願掛けをしたらご利益のありそうな、滝のごとき土砂降りである。風はないようだが、傘もないのに突破できるほど甘くはない。
「なんだよ、傘ねえんか。んもー、しかたないなあ恭介くんはー。てれれってれーん、どーこーでーもーカーサー」
「旧ドラ?」
「おうよ。新ドラ見てねえから真似しようがないしな」
 にひっと笑って、おなじみの効果音を口ずさみながらどこでもカサこと折り畳み傘を渡してくれた。ということは俺はのび太ポジションなのかな、とどうでもいいことを考えつつありがたく受け取る。
「借りていいのか?」
「もちろん。俺は自分の傘あるし」
「助かるわ、ありがと。しかし用意いいな、折り畳みあるのに傘もってくるなんて」
「それはね恭介くん。俺好みの女の子ちゃんがこんな風に雨で困ってるとき、さっと差し出すためですよ」
「さすがモテ沢モテ美はやることがあざとい」
「うそうそじょーだん、小粋なアメリカンジョークじゃないですかー」
 一体どこがアメリカンなのだ。どちらかといえばフランス人かイタリア人っぽいぞ(というのも偏見か)。
 並んで歩きながら、今度はまじめな声で言った。
「傘を持たないで歩き回る人がいるんだよねー、身内に」
「へえ。親?」
「いや、兄貴。迎えにこいって電話かけてきやがるんだって」
 反射的にちゅー先輩を思い出し、笑いがこみあげてきた。お迎えしてもらうのがうれしい、と、成人男性らしからぬことを満面の笑顔で言ってのけたっけ。まったく、どこの家も同じように困った人はいるものらしい。
「大変だな」
「ん? あー、まあ、な」
 何か言ったような気がしたけれど、豪雨にかき消されて聞こえなかった。会話が途切れて、しばらく水の暴れるアスファルトを淡々と歩く。黙ってどこか遠くを見ている相沢の目は静かに澄んでいて、なんだか心配になる。
 この前の文化祭準備の時から、相沢は時々おかしい。悩んでいる、と断定するには薄すぎるが、とにかく何かが変なのだ。笑顔がふっと途切れたり、喋っている時に一瞬反応が遅れたりする。
「……相沢」
「ん?」
 話しかけたはいいものの、対人スキルの低い俺にはどう切り出せばいいのかよくわからない。なるべく遠いところから、さりげなく切り出そう。
「えー、えーと」
「なんだよ」
「相沢、最近悩みとかあんのか?」
 思い切り直球を投げてしまった。俺は馬鹿か。馬鹿だな。
 相沢の傘がかすかにゆれた。擬音をつけるなら、「ぎょっ」とか「ぎくっ」とかそんなかんじだ。立ち止まり、なんとも形容しがたい表情でゆっくりと振り向く。やっぱり何かあるらしい。勢いで「俺だって前に相談したし、なんかあるなら話聞くぞ? 役に立つかは保証しかねるけど」などとそれらしいことを言ってみる。相談して助けてもらったのだから、俺だって同じことを返したい。俺にできることなどそんなにないだろうが、話をするだけで楽になることもある。
 そういえば、俺は相沢が愚痴や泣き言を言うのをきいたことがない。面倒なことがあっても「任せとけ」と笑うばかりだ。
「辻、は」
「ん」
「好きなやつ、いる?」
 まさかの恋愛話だった。
 予想外すぎて、思わずぽかんとしてしまった。相沢の促すような目に、考えながら言葉を選ぶ。
「……いや、俺はそういうのよくわかんないから」
「なんだよわかんないって」
「なんか……うまく言えないけど、こう、一緒にいるなら仲いい子がいいし、仲いいならわざわざ彼女とかじゃなくて普通に友達のままでいいし」
 友達じゃできないことがしたい、なんて言うやつもよくいるけれど、俺はどちらかというとそれに伴う責任を背負いたくないのでしたくない。自分のことさえ一人前にできない俺が、万が一二人分の人生を背負うことになったりしたら、と思うとぞっとする。興味がないとまでは言わないが、別に今でなくてもいい。
 それにしても、相沢の相談に乗ろうと思っていたはずなのに何故俺の恋愛観について喋っているのだろうか。人生はよくわからない。
「人にとられたくないとか思わねえの?」
「……多分思ったことない。から、よくわかんないんだって」
 納得したのかしていないのか、相沢は「ふーん」と相槌を打って黙った。
「……相沢はどうなんだよ」
「俺? いるよ、好きな子」
 あまりにもあっさりと言われたので若干拍子抜けした。こういう話題はなんやかんやと誤魔化されるものだと思っていた。
 そのあっさり具合に、なんだかちゅー先輩を思い出した。そういえばあの人は年がら年中好きだ好きだと連発しているが、相沢が今言ったような、恋愛的な意味での「好き」も安売りしているのだろうか。勝手にイラッとしていると、相沢が続きをぽつぽつと喋り出したので慌てて頭の中から先輩を追い出す。
「その好きな子な、好きな人がいんだよ。好きな人のことばっかしゃべってるわけじゃないけど、たまにすごくいい顔でその人の話して、笑う。……俺のこと、いい友達だとしか思ってないのがよくわかる」
「……」
「ま、それでさ、いい友達の相沢くんとしては、なるべく応援ポジションなわけです」
 言うと同時に、相沢はぐっと顔をあげた。自分に言い聞かせるかのようにゆっくりと発音される言葉が痛々しくて、余計なことを言っている、と自覚しながらも、つい声をあげる。
「いいのか、それで」
「いいよ、俺はね。でもその子が不幸になったら許せないかな」
 少し色素の薄い、紅茶を煮詰めたような茶色の目でじっと見つめられて、ああこの目はどこかで見たことがある、と思った。たぶん、人を好きになると、みんな同じ顔をするのだろう。
「許さない」
 俺の視線をとらえたまま、念を押すように言った。ああ、そう、と言いかけたものの、相沢のあまりにも真剣すぎる目に何も言えず、結局また口を閉じる。
 こんなふうに人を好きになったことはないから、相沢の気持ちはわからない。ただ、こんなにもまっすぐに他人のことを考えられる相沢がとても羨ましくなった。
 車がすぐそばを走っていったのをきっかけに、相沢が視線を外した。じゃ、と短く言って、駅へ続く大通りを走っていく。こんな水溜りの多いところで走ると泥がはねるぞ、とツッコみかけて、やめた。一体今の言葉をどう解釈すべきか悩む。好きな子に直接言ってくれ。俺にそんなこと言われても困るだけだ。
 一人残された丁字路で、雨だけがうるさかった。


Fin


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