36.アサのこと



 

「思ったんスけどお、お客サンてえ、ネカフェ難民ちうヤツっスかァー」
 いつもの漫画喫茶で、読み終わった漫画を棚に戻していると、受付でだらだらと漫画を読んでいた(今日は「うさぎドロップ」だった)顔馴染みの店員に声をかけられた。制服代わりのよれたエプロンと、投げやりな字で「アサ」とだけ書かれた腰の名札が(ちなみにアサ以外の店員はみんな胸につけている)トレードマークの、目つきと態度がものすごく悪い名物店員である。彼が何故サービス業に就こうと思ったのかはよくわからない。一ヶ月のうち三分の一から半分はここで過ごしているからか、アサとは少し仲良しだ。
 座りますかァ、といつも通り語尾を延ばして椅子をすすめられたので、いいのかなーと思いつつカウンターの中にお邪魔する。壁にかかった時計を見ると、午前二時を少し過ぎていた。都会か田舎かといえば当然後者に分類されるこの模山で二十四時間営業の漫画喫茶なんて儲かるのだろうか、といつも気になる。ここが潰れると、五駅先まで行かなければならなくなるので少し困る。
「あーでもここネカフェじゃねーっすけどお、じゃあ漫喫難民つうんかなー。どっちでもいいけどお」
「……客にそれ言っちゃうのがアサらしいよね……」
「そっスかねー」
「そっすよー。怒られないの?」
 相変わらずの対応に、思わず笑った。それにしても、お客さんが少ない時間だからって店番もろくにしないでおれと喋ってていいのか漫喫店員。
「怒られるってぇ、テンチョに? お客サンに?」
「両方」
「やー、ぜんぜんー。テンチョは『相手見てほどほどにね』とかゆーしィ、お客サンは、なんかァー、オレと喋りに来る人もいるんスよー、漫画喫茶なんだから漫画読んでほしーんスけど、ちゃんと金は払ってもらってんだしィ、まーいっかー、的な?」
「そっかあ」
 おれもアサと喋るのは好きだ。頭の悪そうな喋り方なのに、不思議とイライラさせられることはない。それがアサの人徳によるものなのか、本当は頭がいい人なのかはわからないが。ただ、漫画に関する知識はずば抜けていて、こういうのが読みたいんだけどと伝えると打てば響くようにぴったりの漫画を教えてくれる。アサのおすすめに今のところハズレはない。
「期待はずれで悪いけど、ちゃんとアパート借りてるよ」
 殺風景なアパートの部屋を思い出しながら肩をすくめてみせた。食事を作って食べて眠るだけの場所だから、家とは呼ばない。巣穴、とでも呼べばしっくりくるだろうか。いつでも捨てて逃げ出す用意を整えてあるところなんて動物そっくりかもしれない。
 通帳や印鑑など、持ち出すべきものは全部ひとまとめにして鞄に入れてある。いざとなったらそれだけ持って逃げ出せばいい。アパートは藤見さんの名義で借りてもらっているので、後始末は電話一本で済む。もちろんまだそんな電話を入れたことはないし、これからもないとは思うものの、「いざとなったらこうすればいい」ということが決めてあるだけで、精神的に余裕ができて気楽に過ごせるのだ。
「ふーん。そーなんスかー。なんかー、こんなしょっぱい漫喫にいっつもいるしィ、財布ん中いっぱい会員証あったからー、てっきりそーかと思ったんスけどねー、違うんスかー」
「あはは。ごめんね」
「でもー、『家あるよ』とは言わないんスねー」
 ざくりとえぐるような一言に、不覚にも一瞬言葉が出てこなくなった。なるべく不自然にならない程度に声を抑えて、どうにか取り繕う。
「……言ったよ?」
「言ってないっスよー。アパート借りてるっつったんスよお」
「どっちでもおんなじじゃん」
「そっスねー」
 それ以上追求する気はないらしく、アサは漫画の続きを読みながらさらりと流した。自分から振っておいてなんだそれは、と思わないでもないが、この話題を掘り下げられるよりよっぽどマシなので黙っておく。おれも本棚から適当にとった漫画をぱらぱらめくった。なんとなく個室に戻りたくなくなったのだ。アサも何も言わないので、他の店員さんが来るまではここに座っていることにする。
「あー、あとォー」
「んー?」
「最近オトートさん来ますけどお、なんすか、お客サン探されてんスかァー?」
「……弟?」
「オトートさんでしょどー見てもお。髪の色似てるしいー、お客サンみたくえっらいキレーな顔してたしい」
「あはは、茶髪なんかどこにでもいるじゃない」
 漫画のページをめくる音がしない。きっといいシーンを読んでいるのだろう。何度目で追っても読めないセリフを指で辿りながら、なるべく普通の声で答える。
「おれ、弟なんかいないよ」
「そーなんすかァ。ふーん」
「そうです」
「髪の色と顔の系統似ててぇ、お客サンと同姓同名でもお、他人っすか」
「ですよ」
 髪の色もこの顔も、おれがあの子にあげたわけじゃない。半分だけ流れる、あの子と同じ血の持ち主がくれたものだ。この世で一番会いたくない、声も聞きたくない、二度と関わりたくない人が。
 あんたなんか、と耳の奥に蘇る声を無視して、結局セリフをなにひとつ読めないままページをめくった。
 おれをひきとってくれたのは祖父母で、二人が死んでからずっと色々な面倒を引き受けてくれているのは藤見さん。その三人以外、おれを育ててくれた人なんていない。
「おれはいないはずの人間だから、家族なんていないんだよ」
 もうすぐ七月が終わる。八月に入ったらすぐにおれの誕生日だ。
 二十一回目の命日も、多分ひとりで過ごすのだろう。


Fin


20080907sun.u
20080905fri.w

 

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