37.八月五日のこと



 

 珍しく恭介が「次の火曜日、予定あいてたら是非来て下さい」なんて言うから、まあ、何かあるんだろうとは予想していた。
(不意打ちで和服は卑怯だよなあ……)
 いつもどおり部屋の中にいるものだと思いこんで庭に入った途端、縁側で団扇を片手に涼む甚平姿の恭介が目に飛び込んできた。その高校生とは思えないハマりっぷりと不意打ちに驚いて、声をかけるタイミングを逃してしまう。ぼんやり空を眺めている恭介は、何か考え事でもしているらしくこちらに気づかない。どうせなら、と庭の入り口で突っ立ったまま恭介を観察することにした。
 お盆に載せたガラスのコップ(中身は色からして烏龍茶だろう。恭介の母親が嫌いだとかで、麦茶はあんまり作りおきされないのだ)を取ってお茶を飲んだり、ぱたぱたと団扇で申し訳程度に扇いでみたり、という何気ない動作のひとつひとつがとてもきれいだ。格闘技や作法に厳しい習い事(書道とか茶道とか、着物を着て正座してないと怒られる感じのやつ。おれはどれもやったことがないのであくまでも勝手なイメージだ)をしている人と似ているけど、習い事はともかく恭介が格闘技をやっているとは到底思えない。運動をしている人間ならもっと健康的な体つきをしているはずだ。背の伸びるスピードに発達が追いつけなかったような、ぺらぺらのてのひらをしているはずがない。
 虫を追い払おうとしたのか、軽く体をひねった恭介と目が合った。や、となんとも間抜けに手を挙げると、「……来てるなら声かけてくださいよ」と少し不機嫌そうに言って視線を外される。といっても、短くはない付き合いの中でこれは照れているときの反応だ、と学んでいるので、おれはいつもどおりへらっと笑ってみせた。
「いやー、似合うね、甚平」
「ああ……ありがとうございます」
 文化祭で見た書生姿もなかなかだったけど、渋い銀鼠の甚平のほうがより生活に馴染んでいる感じがしていいと思う。このまま近所に出かけてもジャージよりみっともなくないし。
「母親が」
「え?」
「似合うから、っつって買ってきたんです」
「あ、甚平?」
「はい」
 母親に渡されたものを素直に着る子だったのかあ、とおれはまたひとつ新しい恭介を発見する。反抗期とかないんだろうか。いや、恭介のことだからそんな時期はとっくに通り過ぎているのかもしれない。反抗する暇のなかったおれにはよくわからない。
 とりあえずどうぞ、とすすめられるままに隣に座った。こうして縁側に腰掛けていると、祖父母の家を思い出す。間取りや庭の広さはもうよく覚えていない。今のおれにわかる違いといえば風鈴があるかないかくらいのものだ。
 祖父母の家にはガラス製のオーソドックスな風鈴があった。祖母が言うには「結婚する前、おじいちゃんが旅行に行ったときにおみやげで買ってきてくれた」という思い出の品だったらしいが、あの祖父がそんなことをしたとは到底思えない。
「……」
「……」
「……、えー、と」
 いつもより数段歯切れの悪い恭介が、さっきまでとはうってかわったぎこちない手つきでお盆をおれのほうに押した。汗をかいたコップの隣に、ラップをかけた白い皿と箸が置いてある。乗っているのは黄色、というより若干狐色寄りのかたまりだ。
「……たまごやき?」
「旨い保証はないですが」
「え、これ恭介くん作?」
「だから保証がないんです」
 ラップをめくって、箸で一切れつまむ。ところどころ焦げてはいるし、巻き方もちょっとよれているが、昔、一度だけ祖父が作ってくれたたまごやきと比べれば明らかにこっちのほうがきちんとした食べ物ではある。あれはなんというか、塩を固めて炭焼きにしたような味がした。
「俺、料理下手なんで」
「炒飯上手じゃん」
「炒飯しか作れないです」
「これ食べていいの?」
「どうぞ」
 ひとくち食べると、しょっぱさがじわっと広がった。市販の甘いたまごやきに慣れていたせいで余計にそう感じるのだろう。でもおいしい。落ち着きなく団扇を動かしている恭介が明後日の方向を眺めながら、ちらちらとおれの様子をうかがっている。なんだか小さな子供のようでおかしい。こんな恭介は初めて見た。
「おいしいよー」
「……ありがとうございます」
「ほんとほんと」
 疑うような顔の恭介に、ほんとにおいしいよ、と一切れ差し出してみる。食べようとしないので、ふざけて「あーん」と言ったらものすごい顔でにらまれてしまった。なんか久しぶりだなあこのパターン。
「味見はしましたから結構です」
「はあい。恭介くんちってたまごやき砂糖入れない派なんだねー」
「いや、うちのは入ってますよ」
「えー? でもこれしょっぱいじゃない」
 まさか塩と砂糖を間違えるなんてベタなことをやらかしたんだろうか。きょうび少女漫画でしかお目にかかれないようなシチュエーションの産物なのか、と目の前のたまごやきをまじまじと見つめていると、恭介が無言でポケットから薄いカードのような何かを取り出した。なんだなんだ、と覗き込もうとするより早くそれを突きつけられる。
「なにこれ」
「ゴッホのひまわりです」
「ごっほのひまわり」
 間抜けに復唱すると、受け取れ、というようにぴらぴら動かされたのでとりあえず手に取る。ポストカードなのかと思ったが、振ってみると音がした。何か小さなものが沢山入っているらしい。花の種のようだ。
「ゴッホの描いた名画のひまわり、あるじゃないですか」
「うん」
 見たことないけど。
「その絵のモデルになったって言われてる品種の種なんすよ、それ」
「へー」
「……プレゼントフォーユー」
「うん?」
「お誕生日おめでとうございます」
 一瞬何を言われたのかわからずに、「え?」と聞き返してしまった。
 曜日で指定されたから気づかなかったけれど、そういえば今日は八月五日、おれの誕生日だ。
「あれ、間違ってます?」
「や、合ってる……え、おれ教えたっけ」
「いつだったか自分で言ってたじゃないですか。えーと、……忘れたけど、話の流れで聞きましたよ。八月五日、って」
 そういえば、いつだったかそんなことを言ったかもしれない。けれどおれ自身さえ忘れていたような、ずっと前の何気ない会話だ。祝ってもらうどころか、恭介が覚えているとさえ思わなかった。
 もうずっと祝ってもらっていなかったから、どんな顔をすればいいかわからない。
「先輩の好きなもの全然わかんないっつうか、何でも好きって言うから、余計何にしようか迷っちゃって……えーと、読んでた本に八月五日の誕生花がひまわりだって出てたから、じゃあひまわりの種にしようかって、それだけなんですけど、……たまごやきもなんか前しょっぱいたまごやき食べたいっつってたから焼いたんすけど、よく考えたら俺が作るよりスーパーとかでちゃんとしたの買ったほうが良かったですかね、なんか、すみません誕生日祝いなのにすごいショボくて」
 ううん、と首を振るので精一杯で何も言えない。
 誕生日を祝ってもらうのってこんな気分だっただろうか。記憶が遠すぎて、もうわからない。
「先輩?」
 笑わないと。
「どうしたんですか?」
 普段ならうまく作れる笑顔がどうしてもできない。駄目だ、笑え、笑え、笑え、おれはいつでもいかなるときでも笑っているべきで、それ以外の表情なんて無駄なんだから、いいことなんかないんだから、笑え。
「……なんでもない。恭介くんやさしいね」
「んなことないです」
「やさしいよー。ありがとね、ごちそうさま」
「……いえ、お粗末さまです」
「ひまわりも来年まくよ」
「枯らさないよう頑張ってください」
 崩れかける表情を必死につくろって、にこにこと笑ってみせる。大丈夫だ。恭介はおれが何を考えていても気づくような子じゃない。泣いたり暗い顔をすれば何かあったんですか、とは訊くと思う。洗いざらいぶちまけてしまえば、黙って聞いてなぐさめてくれるだろう。わかりにくいだけでやさしい子だから。
 でもおれはそんなことをして欲しいわけじゃない。可哀想って思われるのも不幸だと思われるのももうたくさんだ。
 だから笑う。おれはこんなに幸せにまっとうに生きています、おれはこのままで大丈夫なんですと全世界にアピールし続ける。
「恭介くん」
「はい」
「……だいすき」
「はいはい」
 知ってますよ、と呆れたように笑って、恭介がおれの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。いま何か喋ったら言わなくていいことまで口から出てしまいそうで、潰れそうな心臓をなだめながら、もう一度顔全体で笑ってみせる。
 ごめんね、恭介。
 おれはきみが思っているのとは違う意味で、きみのこと、だいすきみたいだ。



Fin


20080919fri.u
20080919fri.w

 

back / top / next