38.プラネタリウムのこと



 

 夏自体は嫌いじゃないけれど、暑いのはどうも苦手だ。
 クーラーのリモコンを紛失したのを機にしばらく夏らしい生活をしようとしているのだが、座っているだけでじっとりと服が濡れるくらいの真夏日にはさすがに夏なんかどこかへふっ飛んでしまえと思う。俺は修行僧か。このまま行ったら何か宇宙の真理的なこととかわかるのか。宇宙の真理よりもクーラーのリモコンの在り処を知りたい。
「うー……あっづ……」
 図書館へ避難しようにも、照り返しのきついアスファルトを三十分も歩くなんて想像するだけで体力が削られる。座ることすらだるくなって寝転んだ。こうして見ると俺の部屋は本ばかりだ。文机の右側には特にお気に入りの作家の本、左側には辞書や参考書など学習系の本。その他は全て作家名五十音順。俺にとってはこの上なく快適な環境だが、高校生の部屋としてどうなのかと言われたら返す言葉はない。
 座布団を頭の下に敷いてごろごろと転がっていると、本棚の一番下にしまってある写真集が目に入った。星座を中心とした星空の写真が季節順に並んでいるもので、初めて買った写真集ということもあり結構お気に入りの一冊だ。ところどころにはさまっている星座に関するコラムも興味深い。久しぶりにひっぱりだして眺めていると、ほんの少しだけ暑さを忘れた。
 それにしても、昔は買ってくる本と言えば文庫本オンリー(ハードカバーは誕生日とかクリスマスに親からもらうものだった)だったのに、何で写真集なんか買うようになったんだっけ。
「……んー」
 買った時期を思い出せば芋づる式に記憶が蘇るかと思ったのだけれど、脳味噌がいい感じに蒸しあがっていてうまくいかない。あっつい。むり。気分だけでも涼しくなろう、と冬のページまで一気にめくる。
 実際に眺めるのも写真を見るのも、冬の星空が一番好きだ。空気がつめたくて澄んでいて、星の光もどこか硬い。生き物めく春の星も、気温でにじむ夏の夜も、どこか寂しげな秋の空も、冬の美しさには及ばないと思う。
「シリウスはー……これか」
 冬の大三角を指でたどりながら、ひとりごちる。シリウス、ベテルギウス、プロキオン。夏の大三角しか知らなかった(というか冬にもあるとは思わなかった)のに、今では大三角どころか冬のダイヤモンドでもちゃんと見つけ出して線で結ぶことができる。本物の夜空で見つけられるのかは甚だ疑問だが。
 星を眺めるのは昔から好きだった。ひとりでぼんやりと空を見上げているだけで、いくらでも時間は過ぎた。けれど星の名前や神話にはあまり興味がなくて、別に覚えようとも調べようとも思わなかった。何かに熱中したり突き詰めて調べたり、そういうことが苦手だったのだ。今でもあまり好きではない。
(ねえ、シリウスってどれかな)
 不意に先輩の声が脳味噌の奥から聞こえて、はっと顔をあげた。あ、ちょっと待てよ、これをひっぱって辿れば写真集を買い始めた謎が解ける気がする。目を閉じて必死に思い出そうとしていると、突然背中にものすごい衝撃が落ちてきた。寝転がっていたせいで思い切り腰骨やアバラが床に押しつけられ、一瞬息が詰まる。
「ハアーイ恭介、お姉さまが遊びに来たげたわよおー」
「たっのっんっでっねっえっよっ、っ痛!」
 高飛車なハイトーンと共に従弟の背中を踏むことを世間のギャルは「遊びに来た」と呼ぶのだろうか。んなわけねえな。この人が規格外だ。
「頼まれてもないのに美人のお姉さまが背中踏んであげてるんだから喜びなさいよ」
「そんな属性ねえよ!」
 ただでさえ暑いというのに、ミヅ姉なんかいたら体感温度が上昇する。服もアクセサリーも髪型もゴテゴテしていてうっとうしい。似合ってはいるしセンスもいいんだろうとは思うが、見ているだけで汗疹が出来そうだ。どうにか足をどけてもらって座りなおすと、ミヅ姉がキャミソールの胸元を手でぱたぱた扇ぎながら顔をしかめる。
「てゆーか暑っつ! 何この部屋、サウナ? 友達いないから一人で我慢大会中?」
「そんな愉快な一人遊びしてねえよ。あと友達いるよ一応」
「あらあ、なになにエロ本読んでるの?」
「読んでねーよ! 星空の写真集!」
「うわ、枯れたもの見てるわねえ……まあいいか。そんなことよりはい、プーレゼントフォーユゥー」
 語尾に音符か星でもついていそうな浮かれた口調と共に、紙袋に入った薄い箱をぐいぐいと押し付けられた。頬をえぐるな。
「え……何? 爆弾?」
「あんた最近はストレートに失礼ね」
 あけてみな、と促され、心の中で手短に人生と別れを告げながらおそるおそる箱を取り出す。
「……あ」
 出てきたのは雑誌だった。果物電池や紙コップの蓄音機などの簡単な理科系工作キットがついている少し高めのもので、ミヅ姉がくれたのは室内用プラネタリウムキットのついている号だった。やはり人気だったのか、俺の家の近くの小さな本屋では発売後すぐに売り切れて見かけなかった。
 今年の三月ごろから欲しいとは思っていたのだが、出先で見つけていざレジに持っていこうと思うと「この値段で文庫本が何冊買えるか」を反射的に計算してしまい、結局買わずにいたのだ。
「俺欲しいって言ったっけ」
「えー? 言ってないけどお、あんた好きでしょこういうの」
「うん」
「来週あたり優真連れてくるから、よかったら暇なときにでも見せたげて」
 強気な声がわずかに揺れた。
 いくら慣れた家とは言っても、妹を長期間自分のいないところへ預けるのが心配なのだろう。迷惑料のつもりなのか、それともよろしくねという挨拶代わりなのか。
「わかった」
 簡単なものとはいえ、家の中でプラネタリウムが再現できるのだと思うと胸がときめいた。トランペットを買ってもらった黒人の少年状態になっている俺に、ミヅ姉が少々呆れ顔で「そんなに喜ぶとは思わなかったわ」と肩をすくめる。
「ありがと、ミヅ姉」
「どーいたしまして。あんた昔から星好きだったもんねえ」
「うん」
「……にしても、昔はこんなの全然興味なかったじゃない? プラネタリウム連れてってもつまんなそうにしてたし」
「そうだっけ?」
「そーよ。星座とか神話とか詳しくなったし」
「それは部室の本読んでっから……」
 言いかけて、いや、と気づいた。確かに入部当時から部室の本を借りて読んではいたけれど、余程暇なときや昼休み以外にはわざわざ寄らなかった。足繁く通って熱心に内容を覚え始めたのは今年、カーディガンやセーターだけで校内をうろつく人間が増えるくらいの季節だったような。
(恭介くん意外と勉強不足ー)
「……あ、ああ!」
「なっ、何よ!?」
「あ、いや……なんでもない」
 思い出した。
 ちゅー先輩と初めて星を見た日、シリウスがどれだかわからないと言ったら勉強不足だと笑われたのだ。それが妙に悔しくて、密かに写真集を買ってきて星の位置やメジャーな星座を一週間で覚えた。次星を見るときまでにどれだけ星座の名前を覚えられるか、という勝負を持ちかけられたときは、それに加えて八十八星座全てを意地で叩きこんだ。何がそこまで俺を駆り立てたのか、今となっては我ながら謎である。もっとも、予想通りというかなんというか、先輩は勝負のことなんてさっぱり忘れていたのだが。
 あれは何座、あれは何星、と指してみせると、先輩はまるで魔法でも見せられたような顔をする。すごく無邪気な顔で、本当にこの人は俺より年上なんだろうか、と疑いたくなるくらい幼い。
 さらに星座にまつわる神話を話すと、寝る前に本を読んでもらっている子供みたいに先輩は喜ぶ。もっともっと、と手をたたきながら目をきらきらさせるのだ。ネタが尽きないように一晩分のお話を仕込んでおくのは大変だけれど、小さな子供みたいな笑顔を思い浮かべるとなんだかやってやろうという気になる。
「……」
「何よあんた」
「いや、別に?」
「別にって顔じゃないわよ」
 今度先輩が来るのは大体明後日あたりだ。それまでに、プラネタリウムを組み立てて一回試してみよう。
 細かい作業は得意じゃないけれど、すごいすごい、と喜んでくれる先輩を想像するだけで簡単にやる気になれるのだから、俺も結構単純だ。


Fin


20081105wed.u
20081105wed.w

 

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