40.先輩のわがままのこと



 

「今、猛烈にアップルパイが食べたい」
 珍しくしらふのまま転がっていたちゅー先輩が、がばりと体を起こしてそう言った。酒を呑んでいようがいなかろうが、発言の唐突さは変わらないようだ。
「そうですか。行ってらっしゃい」
 最近マックのアップルパイにハマってんだー、あれおいしいよねー、とこの数日散々言っていたので、そのうち「恭介くん一緒にマック行こー」なんて言い出すんじゃないかとは思っていた。別にジャンクフードは嫌いじゃないから付き合うこと自体は構わない。しかし俺は真夜中に外出してハンバーガーを食べるなんてアメリカンな感覚は持ち合わせていない。拒否する。断固拒否する。そろそろ寝る時間だし。
「恭介くんも食べたいよね」
「別に」
「別に食べたくないこともない、と。おーしオッケーレッツゴー」
 無理矢理シャツのすそをひっぱって連れて行こうとするが、俺と先輩では体重が違いすぎて話にならない。のびるからやめなさい、と手首をつかんでやめさせながら、何でこの人はいつもこうなんだろうとため息をついた。我侭というか自己中というか自分勝手というか。もう慣れたけど。
「何ですかその都合のいい解釈。行きませんよ。もう寝ます」
「若者が何で日付変更前に寝るの!? おかしくない!? 夏休みだよ!?」
「いつ寝ようが俺の自由ですよ」
 無駄に起きていたってやることも特にないし、さっさと寝たほうが体にいい。宿題は大抵学校で済ませてくる上、試験前もノートや教科書を流し読みするくらいだから、夜を徹して勉強することもない。
 星を見る時、先輩と喋っている時、本に熱中しすぎた時。俺が夜更かしをするのはそれくらいだ。
「やーだーあああアップルパイ超食べたい! 食べなきゃ死ぬ 今! 現在! ナウ! イーティングプリーズ!」
「大学生としてその英語はどうなんですか。つーか行ってくればいいでしょ、起きて待ってますから」
「ヤダ! 一人マック寂しい!」
「全国の一人マック愛好家を敵に回しましたよ今」
「食べたいのおごるからあ……一緒にマック行こーよお……」
 引っ張るのを諦めたと思ったら、今度は背中にのしかかってきた。首に腕を絡めて(というか若干絞められている)マックマックと騒ぐ。このままじゃ寝ようにも寝られない。はあ、ともういちどため息をついて立ち上がった。
「……わかりましたよ、行きます」
「やったー!」
 財布と自転車の鍵を持ち、滅多に履かないスニーカーを素足でつっかけて外に出る。石田純一だあ、と先輩が笑った。俺はプレイボーイでもなんでもないですが。
 一番近いマックでも自転車で二十分先だ。たしか二十四時以降はドライブスルーのみになってしまうはずだから、歩いていくわけにはいかない。自転車を出しながら、答えはわかっているものの一応訊いてみた。
「先輩、漕ぐのと後ろとどっちがいいですか」
「うっしろー!」
 言うが早いか、当然のような顔をして後ろに座った。万が一漕ぐと言われてもサドルを下げるのが面倒だから断るつもりだったのだけれど、これはこれで何だか微妙な気分だ。まあいいか。
 ペダルを踏み込むと、予想以上の軽さに驚いた。身長のせいもあるのだろう、乗せている感じは相沢よりも優真や青木さんに近い。わずかな揺れでも簡単に落ちてしまいそうでひやひやする。
「ちゃんとつかまっててくださいよ」
「はーい」
 八月の夜中はしつこく残る昼間の熱のせいでまだ暑い。スピードを出すと露出している首筋やくるぶしは若干風を感じるものの、動いた分だけ汗が噴き出してくる。あまり深く考えていなかったが、非体育会系の肉体には荷物を乗せての自転車運転はかなりの重労働だった。先輩が食べたいと騒いでいるアップルパイだけで済ませてさっさと帰る予定だったが、俺も冷たい飲み物くらいは買おう。無事部屋へ辿り着く前に干物になりそうだ。
 坂の多い大通りを汗だくで上りきり、ようやく最寄のマックに着いたのは日付の変わる十五分前だった。危ないところだった。自転車でドライブスルーなんて罰ゲームみたいな真似をせずに済んで安心する。
「えーと、アップルパイ一つ持ち帰りで」
「申し訳ありません、アップルパイは只今品切れ中です」
「あー……」
 こんな時間じゃ無理もない話だ。少し遠いが、駅向こうのマックは二十四時間営業だからそっちに行けばあるかもしれない。
「駅向こうまで行きますか?」
「えー? いいや。暑いしアップルパイよりマックフルーリーがいい」
 子供か。
 あんなに食べたい食べたいと騒いでいたくせに、けろっとして先輩は「この味食べたことないんだあ」などとほざいている。ああ、こういう人だよ先輩は。忘れかけてたけど。
「……じゃあマックフルーリーひとつと、えーと、チーズバーガー。あとコーラMサイズ」
 商品を受け取って外に出ると、引いていた汗が暑さと共に戻ってきた。シャツのボタンをあけて風を通し、しっかり持っててくださいねと袋を渡す。
「コーラの炭酸が半分以上抜けてたら失格です」
「何の試験なのそれ」
「さあ」
「恭介くんはたまにおかしなことを言う……」
「いつもおかしい先輩よりいいと思いますよ」
 くだらないことを言いあいながら自転車を漕ぐ。帰りは下り坂が多いおかげで、行きよりも会話をする余裕がある。袋のごそごそと擦れる音がしてから、「んまーい」と嬉しそうな声が続いた。荷台につかまりながら器用に片手で食べているらしい。先輩はたまに変なところで意味のわからないすごさを発揮する。
「おいしいですか」
「おいしいよー」
 機嫌よく答える声に、わかっていながらもついついツッコミを入れたくなってしまう。
「あんなにアップルパイアップルパイって騒いでたのに」
「えー、そーだっけ」
「何のために俺が自転車出したと思ってんすか」
「おれのため」
 まあそうなんだけど。
 ちゅー先輩のちゅーはじこちゅーのちゅー、と自分に今一度言い聞かせながら、ふと思った。
 今はこうして週三ペースで家に来るけれど、もっと楽しい遊び相手を見つけたら俺のことなんかすぐに忘れるんじゃないだろうか。欲しいメニューが切れていたらあっさり他のものに切り替えるみたいに。
 恭介くん恭介くんとうっとうしいくらいに名前を呼ぶ声も、こっちが酔いそうなほどアルコール濃度の高い吐息も、やわらかい笑顔も、俺の目の前から消える日が来るんじゃないだろうか。そして、俺にはそれを止める権利も咎める権利もない。急に腹の底に石を詰められたような不快感がこみあげてきた。苛々する。
「……先輩のばーか」
「え? なんか言った?」
「言いましたよ」
 力任せにペダルを踏み込みながら、俺は一体何を怒っているのだろう、とふと思った。


Fin


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