41.優真のこと



 

 予定より二週間遅れて優真が家に来た。
 ミヅ姉はいつも通りの高飛車な笑顔だったものの、派手に音を立ててドアを閉めているところを見ると相当イライラしているらしい。出掛けにまた一揉めあったのだろう。大きな鞄を持ってうつむく優真の後ろで「あとで話聞け」とジェスチャーするミヅ姉に、肩をすくめて応える。言われなくてもわかっております女王様。
「いらっしゃい、優真」
「……」
「荷物重くない? 俺とミヅ姉が運ぶから、居間でゆっくりしてきな」
「でも……」
 顔を上げない優真の向こうから、優真のこと怯えさせてんじゃないわよぶっ殺すわよ、と言いたげな視線が飛んできたので、あわてて精一杯の笑顔を作る。俺の仏頂面は見慣れているはずだが、今の優真には威圧的すぎるのかもしれない。かぶりを振りかける優真の手から鞄を奪って、ミヅ姉もにっこりと笑った。
「そーよ優真、あんたお客様なんだからもてなされてきなさいって。大丈夫、恭介が荷物の中見ようとしたら私がシバいておくからね」
「見ねえよ。俺をナチュラルに犯罪者に仕立てんじゃねえよミヅ姉」
 優真はしばらく俺とミヅ姉の顔を見比べてから、小さく頷いて家の中に入っていった。母親が嬉しそうな声できゃー優真ちゃんいらっしゃーいなどと言っているのを聞きながら、はあ、と息をついて笑顔を解除した。ミヅ姉も優真の前とは違って不機嫌を隠そうともしない。
「優真ってあんなに笑わない子だっけ」
「違うわよ」
 苛立ちのぎっしりとつまったため息をついて、ミヅ姉は吐き捨てるように言った。わかってるなら訊くなと言わんばかりの語調だ。なるべく刺激しないように心の中だけで、ですよねー、とつぶやく。たしかに大人しくて引っ込み思案な子だけれど、(自分で言うのもなんだが)俺には付き合いの長さの分だけ懐いていた。それに喋るのが得意ではないだけで、感情や表情に乏しいわけではない。思っていたよりもひどく叔母さんに追い詰められているらしい。
「……そんなひどいの?」
「あれはホントひどいなんてもんじゃないわよ」
 あっれっはっ、と忌々しげにスタッカートを効かせて力説する。ミヅ姉自身、優真のために叔母さんとたびたびやりあっているのだから少なからずストレスも溜まっているのだろう。
 叔母さんと直接話すことはほとんどないが、あまり好きなタイプではない。子供をやたらと習い事にいかせたり、人前でも構わずに叱ったりする。何故長女のミヅ姉ではなく次女の優真を構い倒しているのかは不明だが、とにかく優真はおびただしい数の習い事をさせられていた。小学三年からそろばんとピアノ、四年のときは習字(これは先生が引っ越したとかで一年だけだった)、五年から六年にかけてはスイミングスクールと学習塾。短期のカルチャースクールは種類が多すぎて俺には把握できない。塾だけは優真が友達に誘われて同じところに通いたいと言ったらしいが、他は全部叔母さんの勧めるがままにやっていた(と、優真が家に遊びに来ると時々つぶやいていた)。一言で言ってしまえばいわゆる「教育ママ」というやつだと思うのだけれど、一般的なそれとは何だか違うような気もする。叱り方も普通のしつけではなくて、なんというか「親に恥をかかせるな」という意味合いの方が強く見えた。昔から叔母さんが優真を叱っているのを見るたびにおぼえていた違和感はそこから来ているのかもしれない。
「来年受験だから塾を進学率のいい大手に変えよう、ってのは賛成しないけどまだ理屈としてわかるわよ。でもあのババア、部活は時間の無駄だからやめろとか内申のために生徒会入れとか無茶苦茶言うのよ? ふざけんじゃないわよホント」
「それは……」
「塾だって、優真は今通ってる塾の方が合ってるのよ。とりあえず夏期講習だけ、って約束で今ババアの薦める塾にも行ってるけど、授業の進度が早すぎるし質問しづらいから、いつもの塾のがいいってこぼしてた」
 イライラと髪をかきあげながら、ミヅ姉は泥でも吐くように喋り続けた。実際、長期出張で留守がちの叔父さんに相談してもどうしようもないし、大学の友達に話すには重過ぎる。付き合いの長い従弟くらいにしか、愚痴とも相談ともつかない話の相手はいないのだろう。
「……とにかく、優真のこと頼むわよ。私もちょくちょく様子見に来るから」
「あー、うん」
「悪いけど、塾の夏期講習とかで帰りが遅くなったら迎えに行ってあげて」
「わかった」
「この前あげたプラネタリウム作った?」
「あ、うん。わりと上手く出来た」
「そ。じゃ、今度見せてあげてよ。優真もああいうの好きだから」
「わかってる。そういう約束だし」
 核心に触れまいとするように重ねられる言葉に、うん、わかった、と芸のない返事を繰り返す。こういうとき、他に何を言えばいいのか全くわからない。
 言うことが見つからなくなったのか、ミヅ姉はつやつやと赤く光らせた唇を中途半端な形でとめて黙り込んだ。気の利いた言葉を思いつけず、俺もつられるように黙る。暑さに揺らめく八月の大気を蝉だけがやかましくふるわせるのを、ただじっと聞いていた。
 アブラゼミが歌い疲れたのか、ふいに合唱が途切れた。静けさに背中を押されたようにミヅ姉が口を開く。
「夏の間、母さんと話し合ってみる。だから、優真のこと、よろしくね」
「うん」
「恭介、ごめん」
 ツチノコ級にレアなミヅ姉の「ごめん」に、俺は戸惑った。そういえば先輩のことでミヅ姉と喧嘩した(というより俺が一人で怒っただけだけれど)とき、同じようにミヅ姉に謝られてびっくりしたっけ。
「おじさんとおばさんには謝ったけど、あんたにはまだだったから。……ほんとならうちだけで解決しなきゃいけないのに、関係ない恭介たちまで巻き込んで、ごめん」
「別に……」
 何か言わないと、と脳だけが焦る。けれどどうしても続きが見つからない。何を言えばミヅ姉に俺の考えていることをちゃんと伝えられるのかがわからない。
 ミヅ姉は普段の強気で傲慢な笑顔じゃなく、虚勢を張るような弱気の笑みを浮かべている。これと同じ種類の表情を見たことがある。ちゅー先輩が風邪をひいて、部屋でぶっ倒れてて、死んでるのかと思ってこっちの心臓まで止まりそうになった、あのときの先輩と同じ顔だ。弱り切っているくせに、人を頼ろうなんて考えもしない顔。俺の心配なんかいらないって拒否されたみたいでひどく悲しくて、そして、猛烈に腹が立った(でも殴ることはなかったと今でも反省している)。
「……俺もうちの親も、関係なくはない、と思う。親戚なんだから、こういうときは頼ればいい、んじゃ、ないの」
 恭介のくせに生意気なこと言ってんじゃないわよ、くらいの反応を予想していたのだが、ミヅ姉は小さく頷いただけだった。それでもさっきまでの嘘くさい、らしくない笑顔ではなくなっている分マシだ。
「俺らも中入ろう、暑い」
「……そーね」
 ミヅ姉の手から鞄を受け取って背中を押しながら、ふと考えた。頼ってほしいと思ったとき、ミヅ姉には「親戚だから」と言えばいい。優真には「年下だから」、相沢や青木さんは「友達だから」。
 でも先輩には何も言えない。先輩は親戚じゃないし、(外見はともかく)俺より年上だ。よく遊ぶし仲は良いけれど、友達というカテゴリではない。先輩も俺のことを友達だとは思っていないだろう。
 他人ではない。知人という言葉よりは近い距離にいる。でも血縁でも友人でもない俺とちゅー先輩は、「先輩と後輩」以外の何物でもない。
(少しくらい、頼ってくれてもいいじゃないですか)
(ありがと、恭介くん、ごめん)
 ばかみたいに泣きながら言う俺の頭をほてった手で抱きしめる先輩は、結局俺を頼るとは言ってくれなかった。じりじりと首筋を灼く熱さは、先輩の体温と違ってひどく不愉快だ。
「何してんの恭介、入らないの?」
「あ、いや、うん」
 また何かあったとき、俺は先輩に頼ってもらえるだろうか。


Fin


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