43.夏の終わりのこと



 


 夏休みが終わらないでほしい、と思ったことは一度も無かった。
 今日も休みで明日も休み、という贅沢さと幸福感は素晴らしかったけれど、学校に行ってみんなに会うのも同じくらい好きだった。行くのが楽しくて仕方なかった高校時代はもちろん、学校をしょっちゅうサボってばかりだった中学の頃でも、祖父と一緒にいなくてすむと思うと嬉しかった。祖父のことが嫌いだったわけじゃない。ただ、祖母が死んでからはうまく喋れなくてなんだか気づまりだった。時折来てくれる藤見さんが祖父のわかりにくい愛情を通訳してくれなければ、おれと祖父はもっとぎくしゃくしていたと思う。そんなおれたちのことを、藤見さんはよく「義実も君も似た者同士ですね」なんて言って笑っていた。
「夏休みも終わりだねえ」
「そっすね」
 こうして恭介くんの部屋で一日中だらだらできるのもあとすこしかあ、と続けると、夏休み前からそうだったじゃないですかと可愛げのない口調でツッコまれた。事実なのでごろごろと無言で転がってごまかす。
 わかりにくいといえば恭介も祖父と同じくらいわかりにくい。おれが嫌いなもの(ファミレスのハンバーグについてくるいんげんとにんじんのグラッセとか)を恭介の皿に押し付けると「自分で食べなさい、大人なんだから」と叱るくせに、そうかと思って移さないでいると「あれ、いいんですか俺に押し付けなくて」と不思議そうな顔で訊いてくる。
 おれがするなにもかもを、恭介は当たり前のように受け入れる。けれど決して無理をして合わせているわけではないようだし、実際「無理なこと言わないでくださいよ」とかそんなせりふで頼みを断られたことも何度かある(もっとも、おれの頼みなんてどうでもいいことか荒唐無稽な思いつきの二択であり、恭介が断ったのは全て後者だ。できもしないことをできるというよりずっと誠実なことだと思う)。自分からおれに構ってくれることはあんまりないけど、途方もなくやさしい。恭介のそういうところがとても好きで、すこしだけ苦手だ。気づくとどこまでも沈むように甘えてしまう。
 もしも今恭介がいなくなったら。時々、そんなことを考える。そのたびに、決まって体の芯が抜かれたような脱力感をおぼえる。そして二度と体に力を入れられなくなってしまうんじゃないだろうか、という恐怖も。恭介の不在は、精神的なものよりも先に身体的な感覚として訴えてくる種類のものだ、と(恭介がいなくなったことなどないのに、なぜか)確信している。
 よくないことだ。誰かにあまりよりかかりすぎたら痛い目を見る。自分のコントロールできないことがらによって突き落される絶望を、もう二度と味わいたくない。
「先輩はまだあるんじゃないですか」
「まーね。九月の第三週から、ってかほとんど十月からみたいなもんかな」
 うらやましい? と訊くと、恭介はべつに、と本当にどうでもよさそうな顔で答えた。べつに学校嫌いじゃないですし、休みでも授業でもそんな変わんないすよ、俺。
 たしかに恭介の生活は平日も休日も変わらない。朝早く起きて日付が変わる前には眠る。星を見るために夜遅くまで起きても、必ず早く起きる(ただし、寝起きが信じられないくらい悪い。起きるのは遅いけどすっきりと目覚めるおれとは正反対だ)。
 恭介が興味を強く示すことがらは少ない。星を眺めること、本を読むこと。それ以外のことは、大抵「べつに」の一言で済ませる。おれのわがままを受け入れるときも「べつにいいですよ」という。そのそっけない言葉が、けれどつめたく響かないのは不思議なことだ。
「もうすぐ修学旅行だね」
「気が早いですよ」
「そう?」
 今年も京都奈良? ときくと、たぶん、とあいまいな返事をした。なんだそれ。まあ典型的な地方の貧乏公立高校である千鳥ヶ崎のことだから、いきなり北海道だの沖縄だの海外だのに変わることはないだろう。いいなあ修学旅行。おれも行きたい。
 本に集中しているのか、ページを捲る手が早くなった。骨ばった指の動きを、あぐらをかいた恭介の太腿に頭を乗せたままぼんやりと眺める。何してんすか、とはじめは嫌がられたが、気にせず枕にしつづけていたら何も言わなくなった。これも恭介にとっては「べつに」の範疇なのだろう。
 動く手を見ながらうとうとしていると、いきなり恭介がつぶやいた。
「あ」
「ん?」
「ひとつありました」
「なにが?」
 変わること、と文の切れ端だけを手渡すような話しかたに、視線で何のことかわかりませんと訴える。恭介は話を聞くのが上手いかわりに、話すのが下手だ。自分の知っていることを相手が知っているとは限らない、という当たり前のことが時々頭から抜け落ちるし、話しながら考えるせいかやたらと接続語を挟みながらだらだらと喋る。体が弱かった時分、部屋で本ばかり読んで友達を作らなかったことが、多分に関係しているのだろう。夏休みの話ですよ、と最低限の補足がついて、ようやく先程の話題がまだ続いているのだとわかった。
「先輩と一緒にいる時間、減りますね」
「…………」
 言葉そのものより、不意打ちだ、と思った自分に動揺した。
 恭介が言っているのはただの事実であって、それ以外の意味は何も含まれていない。
「……恭介くんは」
「はい?」
「いつか女の子に刺されると思うよ」
「そんなことになるほど女子の知り合いがいませんよ、先輩と違って」
 冗談とも本気ともつかない表情で、恭介は笑った。
「先輩と遊んでばっかなんで知り合いが増えません」
 増やさなくていーんじゃないの、と言いかけて、やめた。かわりに笑って手をのばし、恭介の頬に触れる。
「あーあ、夏休み終わんなきゃいいのに」
 薄い皮膚だ、と、触るたびに思う。八月が終わって高校の授業が始まれば、こうして昼日中から他愛もない話をしたりぺたぺたと体に触れてみることも出来なくなる。恭介のいない昼間の過ごし方は一か月前に置き忘れてきたのか随分とおぼろげで、手繰り寄せるのは難しそうだ。
「終わんなきゃいいのに、なあ」
 こんなにも惜しみながら過ごした夏の終わりを、一生忘れることはないだろう。


Fin


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