46.時間をもてあましている理由のこと



 


 することが何もない。
 課題は元々溜めこまないたちだし、部活もバイトもしていない。読もう読もうと思っていた本はあらかた片付いてしまった。外に出かける気力もないので、本棚から適当に抜き取った本を読み返しているのだが、なかなか文字が入ってこない。暇すぎて脳味噌が溶けたのかもしれない。
 仕方がないので寝転がって天井の板目を数えていると、おとなしいノックの音がした。そのまま入ってこないところを見ると、おそらく優真だろう。先輩ならもっと勢いよくドアを叩くし、母親とミヅ姉はそもそもノックをせずずかずかと入ってくる。のっそりと起き上がってドアを開けると、予想通り優真が立っていた。
「どした?」
「あの、紅茶飲もうと思ったら切れちゃってて、予備がどこにあるかわからないから……」
 全体的に味覚のにぶい辻家において、コーヒーや紅茶は「飲めればよし」といういい加減な扱いなので、ダイニングテーブルの端にインスタントコーヒーやティーバッグの類いが山と積まれている(その一角を指してミヅ姉に「ファミレスのドリンクバーみたい」と言われたこともある)。俺はあまり補充しないのでうろ覚えだが、確か台所の上の棚にあった、ような気がする。母親がみっしりとスパイスやインスタント食品やなんちゃらミックス粉(俺が知っているだけでもホットケーキ、クッキー、マフィン、クレープ、お好み焼き、たこ焼きと無駄にバリエーション豊かだ。もっとも半分くらいは未開封だが)などを詰め込んでいる魔窟の扉を優真に開けさせるわけにはいかない。わかった行くよ、と靴を履いた俺に、優真があわてて首を振る。
「あ、場所だけ教えてくれたら自分で出すよ……ホントは恭兄の勉強邪魔しちゃいけないから自分で探そうと思ったんだけど、あんまり台所いじるのも失礼だって思って……」
「いいよ。いま何もしてなかったし、台所汚いから場所だけ教えても優真じゃ見つけられないかも」
 軽口を叩くと、優真はちいさく笑った。棚高くて手ェ届かないだろうから俺が取ってくるよ、と優真を居間に待たせてひとりで台所へ向かう。本当は、棚から妙な香辛料や袋の口があいたミックスなんかが不意打ちで降ってきたりして、バラエティ番組の罰ゲーム状態になってしまったら可哀想だからだ。
 俺の危惧とは裏腹に、紅茶は比較的取り出しやすい位置にあった。軽いコントをやらかさずに済んでほっとしながら一箱抜くと、ふと冷蔵庫の中でケーキが意味もなく冷えているのを思い出す。青木さんに頼まれて駅近くの本屋に付き合ったあと、ふらふら寄ったケーキ屋で買ってきたのである。甘いものは好きでも嫌いでもないのに、気づけば何故か三つもケーキを選んでいた。暇が極まるとそういう無意味なことをしてしまうのかもしれない。さっきも天井の板目数えてたし。
 紅茶の箱を脇に抱え、右手でケーキの箱、左手で皿とフォークとマグカップをそれぞれ二つずつ持つ、という盛りだくさんな格好で居間に戻ると、優真が驚いたような顔で立ち上がった。
「て、手伝うのに……ご、ごめんね恭兄」
「や、これくらい持てるし」
「でもっ、恭兄に迷惑かけないようにってお母さんに言われた、し」
 お母さん、と言うときの優真の表情は、家に来てすぐの頃のものに似ていた。相沢だったらここからうまく深い話を聞くモードに移行できるんだろうな、と内心結構尊敬している友人のことをちらりと思う。しかし簡単に真似できないことも重々承知なので、さっくりと話題を変えて意識を逸らしてやることにする。情けないとは思うが、これだって以前の俺よりは随分と進歩したのだ。
「こんなん迷惑のうちに入らないから。それより優真、ケーキ食べないか」
「……ケーキ?」
「友達が来る約束してたから買っといたんだけど、やっぱ行けないって連絡あってさ。俺あんまり甘いもの好きじゃないし、なのに賞味期限は今日までだし。ので、処理を手伝ってくれるととても嬉しい」
 肩をすくめてみせると、優真はひかえめながらも笑って「じゃあ、手伝うね」とうなずいてくれた。紅茶淹れてくるから好きなの二つ取んな、先食べてていいから、と言い置いて台所にひっこむ。
「……あー」
 やかんを火にかけながら、濁ったため息をついた。何でこんなに暇なのか、本当はよくわかっている。
 先週の土曜日から丸一週間、ちゅー先輩が家に来ていない。
 だから何だ、と自分でもツッコんでしまうくらい些細なことなのに、妙にそわそわする。こんなにも先輩のいる日常に慣れきっていたのか、と最早呆れるしかない。どうせ来たってごろごろ転がりながら漫画を読んだり酒に酔ったり眠ったり、あれが食べたい今度ここに行くからつきあってくれ携帯の操作が未だによくわからないから教えろと我侭を言ったりするばかりで、別に何をしてくれるわけでもない。むしろ俺のやることを邪魔している時間の方が多い。その証拠に、今週はいつもよりずっと早く宿題も済んだし本も読めた。
 なのにどうして先輩が来ないことを喜ぶ気になれないんだろうか。
「……」
 さっき咄嗟についた、「来るはずの友達が来られなくなった」という嘘が喉を掻く。出会ったころはともかく、最近では先輩が来るのは当たり前だと思っていたから約束なんて久しくしていない。だから今日行けないなんて連絡ももらってない。それに先輩は先輩で、やっぱり友達では、ない。
 面白いことは喋れない。愛想もない。面倒見だってそんなによくない。人と比べて特別劣る部分が無い代わり、飛び抜けた何かも持っていない。平凡を絵に描いたような俺のところに、どうして今まで先輩が遊びに来ていたのか、考えてもわからない。遊びに来なくなった理由なら簡単にわかる気がするけれど、だけど。
 限りなく沈みそうな思考を、けたたましい笛の音が破った。必要以上に騒ぐやかんを火からおろして、二人分の紅茶を作る。といっても、日東紅茶のティーバッグと砂糖をいれたカップにお湯を注ぐだけだが。
「はい、お待たせ」
「ありがとー」
「俺の分これ?」
 手つかずのガトーショコラを指すと、こくこくうなずいた。子供っぽい仕草だな、と笑いかけて、いや優真はまだ中学生だったと思い直す。さっき先輩のことを考えていたせいで、ついうっかりいつものように(つまり先輩に対してのように)ツッコミをいれそうになってしまった。あぶねえ。
「お友達ってこの前来てた人? あの、茶髪の、なんかかわいい感じの」
「ん? ああ、そうそう。来た時うるさかったろ、ごめんな」
「え、ぜんぜん。ちょっとびっくりしたけど」
 いちごのタルトを小さく切って口に運びながら、様子をうかがうようにちらりと俺をみた。どうした優真、と軽く首をかしげつつ、紅茶をすする。
「も、もしかして、恭兄あの人のこと好き……だったり、して」
 飲んだばかりの紅茶が鼻から出た。
 変なところに入って噎せていると、それを肯定と取ったらしく優真のテンションが上がっている。やっぱりこういう恋愛系の話題には食いつくんだな女の子らしいな、ってそうじゃない。待て優真、ホントちょっと待て。せめてまともに喋れるくらい俺の咳が止まるまで何も言わないでくれ頼むから。
「あ、あたりなんだっ」
「ッ違う! 断じて違う! だっ、大体おまっ、優真、おまえ」
「告白とかしないの?」
「するか!」
「そ、そういうの、ちゃんと言わないとだめだよー……あのかっこいい人とかに取られちゃうよ」
「だから本当そう、いう……ん?」
 先輩がうちに来る時はいつも一人だ。てことは先輩じゃないのか? えーと、茶髪でかわいい感じで、「かっこいい人」と一緒に家に来てて。……あ。
「……優真」
「うん?」
「ええと、その人、眼鏡かけてた?」
 動揺のあまり、無意味に指で輪っかを作って眼鏡のジェスチャーをしながら訊いてしまった。つられたのか、律儀に同じ仕草をしながらうなずく。
「かけてた。なんで?」
「……あ、うん、なんでもない……」
 優真が言っているのはやっぱり青木さんのことだった。だよな。そうだよな。考えてみれば当たり前のことだよな。なんで「茶髪でかわいい感じ」と言われて真っ先にちゅー先輩が出てきてしまったんだ。いや百歩譲ってそこはいいとして、そのあと「好きだったりして」と言われた時点で気づくべきだろ。何で必死で否定してんだ。俺はアホか。いや肯定するはずはないのだが、そうじゃなくて。
「その茶髪のかわいい子もかっこいい人も、両方ただの友達です」
「えー……なーんだ」
 タルトの続きをつつきながら、優真はすこしがっかりしたように呟いた。
「恭兄すごくあわててるから、てっきり図星なんだって思ったのに」
「…………」
 ごまかすように笑う俺の顔は、相当ひきつっていたに違いない。


Fin


20100824tue.u
20100518tue.w

 

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