47.一人旅のこと



 


「ごくらく……」
 間抜けな声をふにゃふにゃ漏らしながら、おれは深々とあたたかな湯に身体を沈めた。頭の上にのせたタオルのほのかな重みや、時折吹きこんでくる風のつめたさが、温泉気分を盛りあげてくれる。
 九月半ばの箱根はゼミ旅行らしい大学生や年齢層の高い旅行客でそれなりににぎわっているけど、昼間はみんな観光に出かけてしまうから、旅館の露天風呂はほぼおれ専用だ。あー極楽極楽。
「今ごろ恭介くんは授業中かなあ……」
 何気ない呟きが、自覚していた以上の重みを持って落ちてきた。気持ちの据わりが悪くなったのをごまかすように、あごまで湯殿に沈む。
 十日前、食事会の帰りに「恭介くんのいないとこまで連れてってください」と藤見さんに言ったら、そのまま駅で箱根行きの乗車券とアーモンドチョコを買ってくれたので、何も考えずにロマンスカーに乗ってここへやってきたのだ。改札前で私にしてあげられるのはここまでですから、と言った藤見さんの声にかすかなトゲを感じて、「この先は自分でやれってことですか」と訊くと「だってもう大人でしょう?」といかにも誠実そうな笑顔を返された(いや、誠実そうな、ではなく、実際に藤見さんは誠実な人なのだ。ただおれがそれを受けきるだけの度量がないだけで)。子供じゃないんだからあんまり駄々をこねるな、と念を押された気がして、笑いながらもかすかに眉根が寄る。あーもう本当にやりにくいなあこの人は。
 改札を抜けてひとりになったあとも、当然ながらおれは藤見さんのいう「ここまで」の先について考えたりなんて殊勝なことはしなかった。代わりにひたすらアーモンドチョコをぽりぽりと食べて景色を見て飽きたら寝て、ロマンスなんて皆無なロマンスカーの旅をした。
 箱根に着いてからはどこにも行かず、温泉でふやけてばかりいる。藤見さんの馴染みだというこの旅館は、適度に古くてとても落ちつく。仲居さんがなれなれしくないというか、変に愛想がよすぎないところもいい。でもこの居心地のよさは、なによりも恭介がいないことがいちばん大きいと思う。
 恭介と一緒にいると、感情の振れ幅が大きくなりすぎてうまく笑えなくなる。言葉のひとつひとつに変な意味がこもっているように聞こえないか気になって仕方なくて、いつもみたいに喋れなくなる。恭介が本を読む背中を見ていると、きれいな背筋がいいなあと思うおれと、さみしいから構ってほしいおれと、うるさがられるのが嫌で読書の邪魔をしたくないおれと、がそれぞれ全然別のことを心の中でわめきたてるから疲れる。
 恭介といるのは楽しい。楽しいのとおなじくらい、最近は苦しい。おれが必死で築いてきた壁を、まるでないもののようにするりと抜けてこっち側までやってくる。そして、それを不愉快に思わないおれ自身が怖い。それどころか一緒にいてほしいと願おうとする自分が怖い。
 そばにいたい。さわっていたい。かまってほしい。なんでもいいからしゃべってほしい。子供みたいに幼稚な欲求の積み重なった奥底に、子供にはない欲望さえも少なからず埋もれている。でもそれを口に出せば、たぶん、いや確実に、恭介とのいまの関係は壊れてしまう。もしもおれが誤解の余地のない告白をしたとして、それを恭介が受け入れてくれる可能性は限りなくゼロに近い。もう来るなと言われるか、そうじゃなくても今までのようなつきあいかたは望めない。おれの何気ないしぐさや言葉のひとつひとつに、恭介は色々な意味を見るだろうから。
 恭介はおれのわがままを概ね受け入れて甘やかしてくれる。なんなんですか先輩はとかいい加減にしてくださいよとか口では言うものの、嫌がっているふうではないから、おれも安心して寄り掛かれる。こんなどうしようもないおれを本気で心配して怒鳴ったりもする。産みの親にさえ捨てられたおれを、恭介は見放さないでいてくれた。きっとこれからも、仕方ないですねなんて言ったりしながらおれのことを構ってくれるだろう。今のままいたって、できないことよりできることの方がずっと多いのだ。
 そして、あとほんのすこしの「できないこと」のために、全てを失うような賭けをするほどおれはギャンブラーじゃない。
 だからおれの「好き」という言葉には、今までどおりの重みしかなくていい。おいしいケーキや甘いお酒が好きだと言うときと同じくらいの「好き」のままでいい。本当の意味は後ろ手に隠して、この火が消えるまでやりすごしてやる。すこしくらい指先が焦げて痛んでも、拒絶されることの怖さに比べればなんてことはない。
 拍子抜けするほどあっさりと方針は決まった。この恋は、隠し通す。それだけだ。あとは何も変わらない。なんでこんな簡単なこともわからずにいたんだろう。思ってたよりおれはバカだったのかもしれない。というか、たぶん、どうしようもなく子供、だ。だってもう大人でしょう、と笑んだ藤見さんを思い出して、おれはあのとき言えなかった答えを胸のうちで並べる。
 ねえ、藤見さん。やっぱりおれは子供ですよ。人のことなんて全然考えてなくて、自分が傷つかなくて済むなら好きな人に嘘をつき続けることをためらいなく選べる、自己中の子供ですよ。なんにも持ってない自分は存在しないのとおんなじだなんて言いながら、そんな自分を必死で守ろうとする、なんて矛盾してむちゃくちゃなことを大人がするはずないじゃないですか。大体、おれは生まれる前に死んで、四歳の夏にもう一度死んだんだから、大人になんかなれるはずないんですよ。
 心の整理がついたことだし、明日はすこし観光しよう。駅前で適当になにかおみやげを買って、ロマンスカーに乗って、楽しく鼻歌でもうたいながら模山に帰るのだ。
 そうだよ。おれの欲しいものはいつだって手に入らない。そんなこと昔から知ってたじゃないか。
 さらに深く、目の下あたりまで湯に沈む。どうかできることならこの恋をここに置いていけますように、なんて往生際の悪いことを考えながら。
 溶かすように呟いた心からの「好きだよ」は、広い湯殿の泡のひとつになって、おれにも聞こえないまま割れた。


Fin


20101231fri.u
20101220mon.w

 

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